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仙台高等裁判所 昭和57年(う)147号 判決

被告人 柴崎清志

大三・七・二五生 農業兼漁業

主文

本件控訴を棄却する。

理由

本件控訴の趣意は、検察官提出の控訴趣意書に記載されたとおりであり、これに対する答弁は、弁護人小野允雄、同小野善雄、同平田由世が連名で提出した答弁書に記載されたとおりであるから、これらを引用する。

第一本件公訴事実と原判決の判断

本件公訴事実の要旨は、

被告人は、青森県上北郡野辺地町字中野渡六四番地の二の自宅において漁業を営むものであるが、

第一  近隣の未亡人熊谷玉枝(当時四三歳)と懇ろになり、昭和五〇年六月ころから深い交際を続けていたところ、同五三年九月ころから同女に冷遇されるようになり、同女が他の男と交際をしていること等を疑つて悶々の日を送つているうち、同五四年五月中旬ころ同女方に赴いたところ、同女が他の男と情交関係にあることを目撃したため、同女から罵倒されて交際を拒絶されるとともに先に借用していた金員の返済を強く迫られたことなどから、この上は同女を殺害してそのうつ憤を晴らそうと決意し、同年六月七日午前六時ころ、借金を返済する旨うそを言つて同女を同町中野渡無番地の被告人方船小屋に電話で呼び出し、同所において、突如手けんで同女の頸部を殴打し、その上半身を突き飛ばして鉄製手押し車の角に同女の後頭部を強打させたうえ、コンクリートの床に転倒させ、同女が失神状態となるや、その上にのしかかつて右手でその頭部をつかみ、左手で同女の鼻口部を強圧し続けて窒息死させ、もつて殺害の目的を遂げ

第二  前記のように殺害の目的を遂げた後、同女の死体を海中に投棄して犯跡を隠蔽しようと企て、同女の死体を前記船小屋内にあつた帆立養殖かごに入れて被告人所有の漁船第三喜代丸に積み込み、同船を操船して、同日午前六時四〇分ころ同県東津軽郡平内町大字狩場沢字堀差地付近海岸の沖合約八〇〇メートルの海上に至り、同所において同女の死体を海中に投げ捨て、もつて死体を遺棄し

たものである。

というのである。

これに対し、原判決は、

「以上を要するに、本件については、前示第二で判示したような情況証拠と第三で判示した被告人の捜査段階における自白があることから、熊谷玉枝がすでに死亡し、かつ被告人が何らかの方法でその死亡に関与した疑いも残り、なかんずく54・8・21、54・8・24(D)員調書以降の自白があることによつて被告人が検察官主張の訴因に記載された態様で犯行を敢行したという可能性も捨てきれないが、反面において被告人の自白についてはこれまでみたように変遷があり、その内容にも経験則や他の証拠にてらして疑問とするところがある。そしてこのような自白の変遷や内容の疑問を踏まえて自白が虚偽であることを主張する被告人の弁解も一概に否定し切れない点が残る。死体その他犯罪事実の客観的側面を直接立証するような物的証拠や供述証拠も全くない本件では、被告人の弁解を排斥する極め手に乏しく、前示訴因に適合する自白部分のみで、これらの弁解を排斥して罪となるべき事実を認定し得るという確信には到底到達できない。被告人の自白が公判廷外の自白であるために、前示第二の情況証拠のみではその真実を保障するに足りず、補強証拠の量が十分でないといわざるを得ない。疑わしきは罰せずという刑事裁判の原則に立脚するとき、結局検察官の訴因を合理的な疑いを排除する程度に認め得る証拠はないという結論に帰着する。したがつて本件公訴事実は、その証明が十分でないことに帰する。」

として、被告人に対し無罪を言い渡した。

第二当裁判所の判断

論旨は、原審において取り調べた証拠により優に殺人、死体遺棄の公訴事実を認定できるのに、これを証明不十分とした原判決は、証拠を平板的、形式的にとらえて本件の実相を見誤り、捜査段階における被告人の自白内容の変遷を過大視し、かつ、さ末な疑問にとらわれてその自白調書の信用性を否定し、結局、証拠の取捨選択ないし評価を誤り、事実を誤認した、というのである(控訴趣意第一)。

そこで、所論にかんがみ、記録及び証拠物を精査し、当審における事実取調べの結果を併せて、順次検討する。

一  客観的証拠によつて認められる事実に関する原判決の認定判断について(控訴趣意第二)

所論は、原判決は、「客観的な証拠によつて認定できる事実」として詳細な認定判示をしたうえ、「客観的証拠による推論」として、熊谷玉枝(以下、玉枝という。)は「すでに死亡したのではないかという疑惑」、「被告人が何らかの犯罪行為によつて玉枝の死亡と深くかかわつているのではないかという疑惑」が持たれるが、「検察官の訴因である殺人、死体遺棄の犯罪構成要件の重要な部分はもとよりその一部をも明らかにする証拠はない。」と判断しているが、本件は、被告人の自白を除いても、客観的な証拠により社会通念ないし経験則に従つて推論すれば、玉枝が昭和五四年六月七日(以下、特に年号を表示しない場合はすべて昭和五四年とする。)早朝、訴因記載の船小屋(平家建てのもの、以下本件船小屋という。)で殺害され、その死体が海中に投棄されたことは動かし難い事実であり、被告人がその犯人である疑いは極めて濃厚と認められ、もとより自白の信用性を担保する補強証拠としては十分な客観的証拠が存する、というのである。

所論に徴し、まず原判決のように、被告人の供述から独立した客観的証拠により、更には所論が物証の検討の際被告人の供述も一部用いているので、被告人の供述から独立した客観的証拠及び真実と認められる被告人の供述部分により、どの程度の事実が推認できるかを検討し、被告人の自白の補強証拠として十分な客観的証拠が存在するといえるか否かについては後に考察する。

1  玉枝の死亡及び死亡原因について

(一) 玉枝の行方不明と家出、自殺、事故死の可能性について

まず、玉枝の行方不明と家出、自殺、事故死の可能性についてみると、関係各証拠によれば、原判示の次の事実が認められる。

(1) 玉枝は、六月七日早朝、通称浜通りを自宅から約一六五メートル北側に進んだ青森県上北郡野辺地町字八ノ木谷地六七番一号洞内キヌ方前路上で、家の前でゆでたよもぎを干していた同女と会い、「やあ早いの、なんぼ早く起きて煮たべ」と声を掛け、同女から「どこさ行くの」と問い掛けられ、「用こあつて、ちよつとの間行く」と笑いながら答えて北の方へ歩いて行く姿を見掛けられたのを最後に消息を絶ち、いまだに消息不明である。

(2) 玉枝の当時の服装は、普段着姿で、サンダル履き、頭にヘアカーラーを着けて、花柄様のネツカチーフをかぶつていた。また、玉枝が消息不明となつたため、六月八日同女の姉蛯沢タケらが玉枝宅に集まり、同女の所持品等を点検したが、現金四〇万円余りのほか、現金一万六一二九円在中の財布、登記済権利証、定期預金証書等の貴重品が残されていて、衣服等も持ち出された形跡が全くなかつた。

(3) 六月七日当日は、玉枝の二女尚子、四男典明の通う小学校の遠足の日であり、尚子らは、同日朝六時ないし六時三〇分ころ起きたが、母の玉枝の姿が見えず、朝食や弁当の用意もしていなかつたため、自分たちで用意して出掛けたが、電気炊飯器のスイツチは押してあつた。

(4) 玉枝は、亡夫平治の七回忌が近いことから、同月五日ころ自宅付近の遍照寺へ行き、同月一〇日に法事を行つてもらう申込みをしており、親類にも案内を出していた。また、同月七日は、アルバイト先であるドライブイン「海幸園」への出勤が予定されていた。

以上の客観的事実、及び関係各証拠によつても、格別玉枝の家出、自殺等の動機は見いだし難いことを併せ考えると、当時通常の家庭生活を営んでいた玉枝が突如消息を絶ち、今日に至つたことは、同女が死亡した可能性が高いことを示すものというべく、同女が従前自殺を図つたことがあることを考慮しても、同女が家出又は自殺をしたとは容易に推認し難い。

そして、関係各証拠によれば、六月一一日以降、それまでの家族、親せきの者などによる捜索に加え、部落民が消防団員まで動員して付近一帯の海岸線、田、畑、山林や、本件船小屋を含む付近の船小屋の内部や周辺を懸命に捜索したが、玉枝の死体はもちろん、何らのこん跡も発見し得なかつたことが認められ、事故死の可能性もほとんど考えられない。

(二) 犯罪行為による玉枝の死亡等をうかがわせる事情の有無について

そこで、犯罪行為による玉枝の死亡等をうかがわせる事情があるかどうかを考えてみるのに、関係各証拠によれば、次の事実が認められる。

(1) ネツカチーフとサンダルの発見

八月一四日午前五時ころ、青森県東津軽郡平内町大字狩場沢字浜懸七五番地の二に住む金津禅志が、自宅前で野辺地方向から青森方向に向けてバイクで走行している被告人を見掛け、折から被告人が玉枝を殺したのではないかといううわさが広まつていたことから、被告人の行動に不審を抱き、その後を追跡したところ、被告人は、その自宅のある馬門部落から地図上の直線距離で三、四キロメートル離れた大字狩場沢字堀差地内の大崎海岸(以下、大崎海岸という。)に至り、同所の松林の中に捨てられていたわら束などを堀り返したり、付近をうろついたりしていた。金津は、身を隠しながら被告人の行動をうかがつていると、木戸太郎が付近を通り掛かつたので、同人に被告人が不審な行動をしていると説明しているうちに、被告人が同所から北方にある別の松林の方に行つてしまい、見失つたため、自宅へ引き返して、被告人の行動を警察に連絡した。木戸は、被告人が右松林の先の海岸で海の方向を見ながら一〇分位しやがみこんでいる姿を見ていたが、そのうち被告人が戻つて来たので声を掛けると、被告人は散歩に来たと応答した。野辺地警察署に応援派遣された青森県警察本部刑事部鑑識課技術吏員工藤恵一らが同日午前一〇時ころから金津の案内で右松林(以下、本件松林という。)を捜索したところ、松の木の根元にネツカチーフ一枚(当庁昭和五七年押第五四号の7、以下符号のみを示す。このネツカチーフを以下、本件ネツカチーフという。)に包まれた緑色のサンダル一足(符号8、以下、本件サンダルという。)が置いてあるのを発見し、これらを領置した。

(2) ヘアカーラーの発見

八月一八日と同月二〇日の両日、捜査員が本件船小屋付近の海中を捜索した結果、同月二〇日、本件船小屋の東側に接続して造られた斜路(船揚場)東端から北北東に七・一五メートルの地点の、水深一・二メートルの海底において、ヘアピン一本付き赤色ヘアカーラー一個(符号11)が、その全体の三分の二が海底の砂にうずもれた状態で発見され、次いで、右斜路南端から南方四六・六メートル、コンクリート堤防の東方二・四メートルの地点の帆立貝殻等が集積した砂地上において、赤色ヘアカーラー一個(符号10)が帆立貝殻、小石等の間に挟まれた状態で発見され、いずれも領置された(右ヘアカーラー二個を併せて、以下、本件ヘアカーラーという。)。

(3) ヘアピンの発見

野辺地警察署に応援派遣された青森県警察本部刑事部鑑識課警部補木村一四五らが八月一五日被告人所有の船小屋(ウインチ小屋、本件船小屋及びこれに隣接する二階建て船小屋)及び第三喜代丸を検証し、毛髪ようの物、塵埃、たばこの吸い殻等の証拠物を広範に採取して鑑識活動を行つたが、その際本件船小屋内でヘアピン一本(符号36)が発見されて領置され、その後同所で採取された塵埃(符号35の1)中からヘアピン一本(符号35の2)が確認された(右ヘアピン二本を併せて、以下、本件ヘアピンという。)。

もつとも、本件ヘアピン発見の経緯等については、不分明な点がないわけではない。すなわち、当時野辺地警察署に勤務していた司法警察員五十嵐理夫は、当審において、同人が本件船小屋でヘアピン一本を発見し、被告人の息子の柴崎三二(以下、三二という。)から任意提出を受け領置した旨供述するが、より時間的に近接し記憶が鮮明であつてよいはずの原審第三回公判期日においては、「小田桐係長から、被告人の船小屋を検証した際にヘアピンが見つかつたので、それが玉枝の使つていた物かどうか確認する必要があるので、玉枝宅からヘアピンの任意提出を受けるように指示され、八月一五日玉枝の娘である熊谷江美からヘアピン三八本の任意提出を受け、これを領置した、同日被告人の船小屋を検証した際に出てきたヘアピンはちよつと記憶にない。」とも供述していることなどを併せ考えると、右五十嵐の当審における供述はにわかに採用し難い。なお、同人が当審において述べている、当審で提出された三二作成のヘアピン一本についての八月一五日付任意提出書に押捺された印影は、原審で提出された同人作成の塵埃等についての同日付任意提出書(記録二冊三〇五丁)に押捺された印影とは一見して異なることが認められる。ちなみに、三二はこの点に関し、当審において、八月一五日に行われた本件船小屋の検証に立ち会つたが、同所でヘアピンが発見されたかどうかわからない、ヘアピン一本についての右任意提出書にいつ署名押印したか思い出せない旨供述する。また、八月一五日の検証の結果を記載した司法警察員作成の同月二五日付検証調書によれば、本件船小屋出入口から小屋やや中央付近までの間から採取した塵埃の中にはヘアピンが混入している旨記載され、右ヘアピンの写真(〈72〉上段の写真)が添付されているが、右塵埃とは別に、本件船小屋南西側さくり付近からも塵埃が採取されており、写真〈72〉下段の水槽の写つている写真に示されているヘアピンの発見位置からすると、むしろ南西側さくり付近の塵埃に右写真のヘアピンが混入していたのではないかとも疑われる。そして、出入口から小屋やや中央付近までの間から採取した塵埃等を写した〈72〉の各写真には「1」の番号札が付され、南西側さくり付近から採取された塵埃を写した〈73〉の写真には「2」の番号札が付してあり、他方、添付の現場見取図第4の1の図面には、出入口から小屋中央付近までの緑色に塗られた部分に当初〈1〉と書いてあつたのが〈2〉に訂正され、南西側さくり付近の赤斜線部分には当初〈2〉と書かれていたのが〈1〉に訂正されていることなども併せ考えると、どのヘアピンがどの辺から発見されたのかは必ずしも明らかではないのではないかとの指摘も可能である。しかしながら、上記のように、司法警察員が八月一五日に本件船小屋等を検証した際の写真(〈72〉上段の写真)にヘアピンが写されていることや、青森県警察本部刑事部鑑識課犯罪科学研究室技術吏員吉川英城作成の塵埃検査結果報告書、その他の関係各証拠によれば、少なくとも、八月一五日の検証時に本件船小屋からヘアピン一本が発見現認され、同月一八日に至り、同月一五日本件船小屋で採取された塵埃を篩別検査中、他の一本のヘアピンが発見されたことが認められる。

(三) 本件ネツカチーフ、サンダル、ヘアカーラー、ヘアピンの発見に関する所論について

所論は、

〈1〉 本件ネツカチーフ、本件サンダル及び本件ヘアカーラーは、玉枝が失踪当時着用していたものと認められ、本件ヘアピンは、本件ヘアカーラー二個のうち一個に付いていたヘアピン及び玉枝方の洗い桶にあり同女が平素使用していたと認められるヘアピンと同種類である、

〈2〉 これらは、いずれも、通常の挙止動作によつて脱落するものでなく、その発見状況からみても玉枝が自分の意思でその身に着けていたものを遺留したものでないことは明らかであるから、同女に対しそれらの脱落を生じさせるような態様の何らかの強い外力が加わつたために脱落したものと認められる、

〈3〉 しかも、本件船小屋内の塵埃中からヘアピンが、本件船小屋の海中からヘアカーラーがそれぞれ発見されていること、また、被告人自身も原審公判廷で認めるように、玉枝のネツカチーフ及びサンダルが本件船小屋内に存在していたことは、到底単なる偶然の重なり合いとは考えられず、本件船小屋内が同女に対する外力が加えられた場所と認めるのが相当である、

〈4〉 そして、右のような状況の下で、玉枝の死体が発見されていないということは、現場付近の状況及び同女の捜索状況の結果等にかんがみ、死体が海上に移され海中に投棄されたものと推論するのが当然である、

というのである。

(1) そこで、まず被告人の供述から独立した客観的な証拠に基づき検討する。

(イ) 初めに、本件ネツカチーフ等の証拠物は玉枝が失踪当時着用していたものと認められるかどうかを考える。

本件ネツカチーフについてみると、玉枝の二女の熊谷尚子の検察官に対する八月二六日付供述調書(以下、八月二六日付検面調書というように略称する。)及び同人の原審第五回公判期日における供述並びに同じく二男の熊谷正彦の原審第六回公判期日における供述等の関係各証拠によれば、本件ネツカチーフは玉枝が失踪当時着用していたものと認められる。そして、本件サンダルについてみると、青森県警察本部刑事部鑑識課技術吏員米澤健一作成の八月三〇日付鑑定書及び同人の原審第七回公判期日における供述によると、本件サンダルと玉枝が使用していた赤色サンダルの摩滅形態が類似し、同一歩行癖によつて形成された摩滅と認められること、熊谷尚子が前記検面調書において、本件サンダルは玉枝が履いていたサンダルと色、形が似ているなどと述べていることなど関係各証拠を総合すれば、本件サンダルも同女が失踪当時履いていたものと推認し得る。

更に、本件ヘアカーラーについてみると、青森県警察本部刑事部鑑識課犯罪科学研究室技術吏員三上哲男ら作成の一〇月一日付鑑定書、証人三上哲男の原審(第六回公判期日)及び当審における各供述によれば、重さ、変形(つぶれ)の有無、植毛繊維の摩耗、砂状物の付着の有無等の外観検査と植毛繊維の色調、太さ、顕微鏡形態、穴あき鉄板の大きさ、接合方法、穴の形態の比較検査及び穴あき鉄板について発光分析により主たる金属成分の分析を行つた結果、本件各ヘアカーラーは、玉枝方のプラスチツク製洗い桶から採取した赤色ヘアカーラーと同種類のものである旨の鑑定結果が得られたことが認められ、右三上哲男作成の一〇月五日付鑑定書及び同人の右各供述によれば、さびの発生の有無等を含む外観検査、表面仕上法、長さ、幅、厚さ、重量、型模様の比較検査をしたところ、符号11のヘアカーラーに付着しているヘアピンは、波型四段付のものであり、右洗い桶から採取した赤色ヘアカーラーに付着しているヘアピン四本中三本と同形態で、他の一本(波型三段付のもの)とは形態が異なり、同様に、右洗い桶から採取したヘアピン三八本中一六本と同形態で、他の二二本(波型三段付のものが八本、玉付のものが一四本)とは形態が異なることが明らかである。そして、原審証人根岸明子は第六回公判期日において、本件ヘアカーラーと同種類のものを玉枝に売つたことがある、同証人が扱つているヘアカーラーは一般に市販されていないと思われるが、玉枝以外の客にも分けてやつたことがあり、他の美容院等でも分売しているのではないかと思われる、符号11のヘアカーラーに付着しているヘアピンはピジヨンと思われ、六月一日ころ同証人の店で玉枝にヘアカーラーを着けてやつたときに使つたヘアピンと同種類のものである旨供述する。また、洞内キヌは原審(第四回公判期日)及び当審において、六月七日早朝玉枝が自宅前路上を北の方(本件船小屋のある方)に向かつて歩いて行く姿を確認しているが、その際同女が頭にヘアカーラーを着けているのを見ている旨供述する。なお、被告人は当公判廷において、娘のマサ子が本件ヘアカーラーと同種類のヘアカーラーを使用していた、同女は本件船小屋に入つたことが何回もある旨供述し、また、台風の時などに本件ヘアカーラーのような物が本件船小屋に入つてくることがある旨供述するが、このような本件ヘアカーラーが玉枝のものかどうかを疑わせる被告人の供述を除外し、上記の諸点その他関係各証拠を総合考察しても、本件ヘアカーラー二個が玉枝のものである疑いが濃厚であるとまでは認められるものの、同女のものであるとは断言し難く、所論のように、本件ヘアカーラー二個が同女の失踪当時着用していたものと認められるとまではいい難い。

更に、本件ヘアピンについてみると、前記の一〇月五日付鑑定書等によれば、本件ヘアピン二本は本件ヘアカーラーに付着しているヘアピンと同形態であることが認められ、本件ヘアカーラー付着のヘアピンは玉枝方のプラスチツク製洗い桶から採取された赤色ヘアカーラーに付着しているヘアピン及び右洗い桶から採取したヘアピンの一部と同形態で、他の一部とは異なる形態であることは先に述べたとおりである。以上のほか関係各証拠によれば、本件ヘアピン二本は玉枝使用のヘアピンの一部と同種類であるとまではいえるものの、確かに同女が失踪当時着用していたものであると認めることはできない。

個別的に右各証拠物をみた場合、それらが玉枝が失踪当時着用していた物かどうかについては右の限度で認められるにとどまるが、更に総合的に考察すれば、本件ネツカチーフ及び本件サンダルは本件松林で発見され、被告人が右松林で不審な挙動をし、本件ヘアカーラーは被告人所有の本件船小屋付近の海底、海辺から発見され、本件ヘアピンは本件船小屋内から発見されており、これらは被告人を媒介として相互に関連するのではないかとも考えられ、上述のように本件ネツカチーフ及び本件サンダルは玉枝が失踪当時着用していたものと認められるのであるから、本件ヘアカーラー及び本件ヘアピンについても同女が失踪当時着用していたものである疑いが一層強まることを肯定し得るとしても、右の点をいまだ断定し得るまでには至らないものというべきである。

(ロ) そこで更に、右各証拠物等の被告人の供述から独立した証拠によりどの程度推認し得るかを検討する。まず所論〈2〉についてみると、前述のとおり、本件ネツカチーフ及び本件サンダルが大崎海岸の松の木の根元で発見され、その直前被告人がその付近で不審な挙動をしていたことが認められるが、これらの状況から玉枝が自分の意思でその身に着けていたものを遺留したのではないと推測し得るとしても、そこに遺留された経緯を明確にする客観的証拠を欠くので、そのように断定することまではできず、また、本件ヘアカーラー及び本件ヘアピンについては、玉枝が失踪当時これらを身に着けていたものと確定し得ないのであるから、いかにして同女の身体から脱落したかも確定し得ないこととなるうえに、本件ヘアカーラーは、本件船小屋付近の海底、海辺で発見されたものの、被告人の供述を離れてみた場合、それがいかにして海底、海辺に存在するに至つたか不明であり、その発見状況からみて玉枝が自分の意思でその身に着けていたものを遺留ないし投棄したものでないことが明らかだとはいえない。本件ヘアピンについては、容易に頭髪等から脱落し得るから、本件船小屋の床に落ちていた事実をもつて直ちに犯罪事実を推認するわけにもいかない。次に所論〈3〉についてみると、本件船小屋内の塵埃中から玉枝使用のヘアピンと同種類の本件ヘアピンが発見され、同じ本件船小屋前の海底、海辺から同女が失踪当時着用していたものとの疑いが濃厚な本件ヘアカーラーが発見されたということは単なる偶然ではないともみることができ、その発見場所に着目すると、玉枝に外力が加えられたとすれば、その場所は本件船小屋であるとの疑いが抱かれないではないが、上記の事実をもつてしても、所論のように、本件船小屋内が同女に対する外力が加えられた場所と認めるのが相当であるとまでは断じ難い。また、所論〈4〉については、所論のように、死体が海上に移され海中に投棄された可能性を否定し得ないが、そのように推論するのが当然であるなどともいえない。

(2) 更に所論にかんがみ、客観的証拠に被告人の供述をも併せて検討することとするが、本件においては、被告人の供述の信用性それ自体が問題になるので、右検討に当たつては、状況証拠等によつてその信用性が十分担保されていると認められる被告人の供述部分に限りこれを認定の用に供するのが相当である。

そこで、まず本件ネツカチーフ及び本件サンダルについてみると、被告人は、八月一五日付員面調書(B)では、玉枝はコンクリート上をぐるぐる回つたりしていたが、ネツカチーフは取れ、サンダルは脱げてしまつていた、ネツカチーフ、サンダルも死体と共にかごに入れた、死体の入つたかごを船の上に揚げたが、死体がかごから半分位出ており、ネツカチーフ、サンダルも甲板にあつたと思う旨述べていたが、その後の捜査段階では、死体を捨てた帰り、船の甲板を洗つたとき、初めてサンダルが甲板の排水口の所にあるのに気付いた、玉枝を殺したときは脱げたか気付いていない、死体をかごに入れたときサンダルも一緒にかごに入れたという記憶もない、死体投棄後船小屋の中を見ると左奥の水槽の中にネツカチーフが落ちていたなどと述べ、これに対し、原審及び当審の各公判廷においては、「六月九日本件船小屋を片付けに行つた際、ネツカチーフとサンダルがネツトの間に挟まれているのを見付けた。」旨供述する。右供述内容は、特に捜査段階と公判段階では趣を全く異にし、いずれが真実かを決する客観的証拠を見いだし難い。このように、本件サンダルに関しては、その発見場所、状況につき供述の変遷が著しく、いずれが真実かは容易に断定し得ない。もつとも、本件ネツカチーフに関しては、捜査段階、公判段階を通じて、本件船小屋にあつたとの限度では共通しているものと認められる。そして、所論は、被告人自身も原審公判廷で認めるように、玉枝のネツカチーフ等が本件船小屋内に存在し、ヘアピン、ヘアカーラーが本件船小屋内あるいは付近の海中から発見されていることは単なる偶然の重なり合いとは考えられず、本件船小屋内が玉枝に対する外力が加えられた場所と認めるのが相当である、というのである。しかしながら、本件ネツカチーフに関する捜査段階及び公判段階の被告人の供述では、前述のようにその発見時の態様を全く異にし、それから推認し得る事柄は全く異なつてくる。本件船小屋左奥の水槽の中に落ちていたとすると、所論のように、被告人と玉枝が争つた際落下したとも考えられるが、ネツトの間に挟まつていたとすれば、そのようには解し難い。そうすると、発見時の態様が判然としないまま、所論のように推論を進めるのは相当とは思われない。また、被告人が本件ネツカチーフと本件サンダルを本件松林に持つて行つた動機、八月一四日に大崎海岸の松林に行つた動機等については、被告人の供述自体に変遷異同があり、その信用性が十分担保されているとはいえないから、これらの点で本件ネツカチーフ及び本件サンダルの証拠としての意味を確定することもできない。

次に、本件ヘアカーラーについてであるが、被告人は、捜査段階においては、「玉枝を海上に投棄し、被告人の船揚場まで戻り船を揚げて後、本件船小屋の中を見たところ、コンクリートの上に玉枝の頭の髪から取れた赤い色をした髪をねじる金具が三個落ちていた、船小屋を出てシヤツターを閉め、斜路の所から海に向かつて投げ捨てた。」旨供述し、原審及び当審各公判廷においては、「六月七日の二、三日後、本件船小屋の中を掃いた時見付けたが、ごみと思つて付近の海中に投げ捨てた。」旨、日時等は異なるが、本件船小屋の床にあるのを見付けて付近の海中に捨てたこと自体については同様の供述をし、現にその供述どおり本件ヘアカーラーが本件船小屋付近の海底、海辺から発見されていることなどからすると、被告人が本件船小屋の床から本件ヘアカーラーを発見し、付近の海中に投げ捨てたことは、ほぼ間違いのないことと推認される。そうすると、玉枝が失踪当時身に着けていた疑いの濃厚な本件ヘアカーラー二個と、玉枝が使用していたヘアピンと同種類の本件ヘアピン二本が同じ本件船小屋の床から発見されていることになり、本件ヘアカーラー及び本件ヘアピンは玉枝が失踪当時身に着けていたものであるとの疑いを一層強くする。また、ヘアピンはともかく、ヘアカーラーは、原審証人根岸明子が第六回公判期日において述べるように、ヘアピンで髪に留めるので比較的脱落しにくく、しかも、二個も床に落ちていたというのであるから、身に着けていた者の意思に基づき、あるいは偶然脱落したと推測するよりは、他の外力が加えられて脱落した可能性を推測する方がより自然と思われる。そして、本件ヘアカーラー、本件ヘアピンとも本件船小屋の床にあつたことからすると、ほかの場所からそれらが持ち込まれたと推測するより、本件船小屋内が本件ヘアカーラー及び本件ヘアピンを身に着けていた者に対する外力が加えられた場所であることの可能性を推測するのがより合理的であると思われる。なお、本件ヘアカーラーを海中に捨てたのはなぜかという点については、被告人は、前記のとおり、捜査段階では、玉枝のものと分かつて捨てたと供述しているのに対し、公判段階では、ごみと思つて捨てたと弁解するところ、右弁解はそれ自体不自然なきらいがあり、直ちに措信し得るものではないが、他にそのいずれとも断定するに足りる客観的な証拠がないから、被告人が本件ヘアカーラーを海中に捨てたことがいかなる意味を持つかは、にわかに確定し難い。

(四) 犯罪行為による玉枝の死亡を証明する直接的、客観的証拠について

そこで更に、犯罪行為による玉枝の死亡をより直接的に証明する客観的証拠の有無を検討するのに、関係各証拠によれば次のとおり認められる。

(1) 玉枝の死体等の不発見

関係各証拠によれば、前述した部落民による捜索に加え、警察が大掛かりな捜索を行つたが、結局、玉枝の死体等を発見し得なかつたことが明らかである。すなわち、原判示のとおり、被告人は八月一四日に逮捕された後、同月一五日に、玉枝を殺害してむつ湾内の被告人の帆立貝養殖場所である八六番のノシ(以下、本件ノシという。)に死体を遺棄したと自供したので、翌一六日に被告人自身に海上で場所を指示させたうえ、同日から同月二一日までの間に潜水夫等の出動を得て延べ五日間、延べ人員四〇名で約一六万平方メートルにわたる海底の捜索がなされたが、死体は発見されなかつた。ところが同月二一日、被告人は死体を捨てた場所が本件ノシ付近ではなく、西方にはるか離れた狩場沢の大崎海岸沖である旨供述を変えたため、被告人に海上及び陸上から位置を指示させた後、同月二三日から一〇月一三日までの間に潜水夫や底引き網などを用いて延べ二〇日間、延べ人員一一七名で右大崎海岸沖その他の海域を約一七一万平方メートルにわたつて捜索したが、死体その他本件に関係すると認められる遺留品等は発見されなかつた。

(2) ルミノール検査等

関係各証拠によれば、原判示のように、前記木村警部補らが八月一五日被告人所有の船小屋(ウインチ小屋及び本件船小屋を含む船小屋二棟)及び第三喜代丸を詳細に検証し、毛髪ようの物、塵埃、たばこの吸い殻等の証拠物を広範に採取し鑑識活動を行い、本件船小屋についてはルミノール反応等による血こん検査も行つたが、前述のように同所の塵埃の中からヘアピン一本が確認されただけで、玉枝の殺害等を直接裏付ける証拠は発見されるに至らなかつたことが明らかである。そして、当審において取り調べられた青森県警察本部刑事部鑑識課犯罪科学研究室技術吏員綿谷弘四ら作成の九月二七日付鑑定書、同人作成の同月一〇日付鑑定書、同研究室技術吏員福士武美作成の同月一七日付鑑定書及び科学警察研究所警察庁技官向山明孝ら作成の鑑定書等の関係各証拠によれば、鑑定の結果、第三喜代丸及び本件船小屋から採取された塵埃に人頭毛、陰毛が認められたが、玉枝のものと考えられる染色毛及び同女方寝室等から採取した陰毛と類似するものは認めることができず、血こんであることの証明も得られなかつたこと、八月一七日第三喜代丸及び本件船小屋の床から採取されたいくつかの血こん様のものからは、血こんであることの証明が得られないか、あるいは血こん予備試験で陽性反応を示したが、人血の証明は得られなかつたこと、本件船小屋内の二輪手押し車(以下、二輪車という。)の右側タイヤの外側に血こんの疑いのある物質の付着が認められるが、血こんの確認及び人血の証明は得られなかつたことが認められる。

(五) 以上を要するに、被告人の供述を除いた客観的証拠に基づき、あるいはこれに真実と思われる被告人の供述部分を併せ検討しても、程度の差はあれ、原判決指摘のとおり、玉枝が既に死亡し、それが何らかの犯罪行為によるのではないかという疑惑が持たれるが、同女が六月七日早朝本件船小屋で殺害され、その死体が海中に投棄されたことは、可能性として推測し得るものの、真実の高度な蓋然性のある事実として確認することはできず、所論のようにこれが動かし難い事実であるとまでは到底いえない。

2  玉枝の死亡と被告人との結び付きについて

所論は、当時、被告人と玉枝の間には、原判決も認定するように、熊谷清蔵との三角関係を背景として愛情問題と金銭の貸借関係を巡り、殺人の動機に発展しても不自然ではない深刻な確執が存していたと認められること、被告人が、熊谷清蔵あてに玉枝が作成した遺書の体裁をとつた書簡を所持していたこと、被告人が、失踪時玉枝が使用していたネツカチーフ、サンダルを所持していたこと、被告人所有の本件船小屋の塵埃の中から玉枝が平素使用していたヘアピンと同種のヘアピン二本が発見され、また、本件船小屋前付近の海中から同女のヘアカーラー二個が発見されていること、その他玉枝の行方不明前後における被告人の行動、被告人の不審な挙動を総合すれば、被告人が玉枝を殺害し、死体を海に投棄した犯人である疑いは極めて濃厚といわなければならない、というのである。

(一) そこで、所論にかんがみ、まず被告人の供述から独立した客観的証拠に基づいて検討すると、関係各証拠によれば、原判示のように、次の事実が認められる。

(1) 愛情問題と金銭貸借

熊谷清蔵は、玉枝と懇ろになつた後、同女から再三被告人とは別れようと話し合つているのに付きまとわれて困つている旨の愚痴を聞かされたり、一月末か二月初めころの夜玉枝宅を訪れていたところ、人の気配を感じていつたん外へ出た玉枝がしばらくして被告人と一緒に入つて来て、被告人が玉枝と一緒になるつもりのようなことを言い、同女から、妻子のある被告人と一緒になれるわけがないし息子(三二)の縁談のこともあるから別れようと言つていたのにこんな乱暴をしなくてもいいではないかなどと怒つた口調で言い返されたり、また、五月一五日午前九時ころ、清蔵が玉枝方で同女と情交をしていた最中に、被告人が勝手口の心張り棒を外して同女方へ上り込んで来て寝室をのぞき、怒つた玉枝に追い返された後、再び同女方に戻つて来たところ、同女から難詰され、貸した金をちやんと返すよう文句を言われて帰つたりしたのを見聞きしている。そして、被告人は、昭和五三年八月九日、玉枝の長女熊谷江美名義の五〇万円の定期預金を解約して払戻しを受け、これを被告人の野辺地町漁業協同組合の貯金口座に入金した後、被告人の同組合からの近代化資金の借入債務元利金四四万八八九八円の弁済に充てており、五月一五日に同組合から二〇万円を借り、同組合の名が入り「柴崎清志殿」と記載されている封筒に入つた現金二〇万円を受け取り、玉枝が消息不明になつた後同女宅でその所持品等の点検がなされた際、右封筒に入つた現金二〇万円が発見され、また、六月七日の二週間位前玉枝宅で、同女が被告人に対し金員の返済を要求して激しい口論となり、これを目撃した同女の二男の正彦が仲裁に入つており、被告人と玉枝との間に愛情問題と金銭の貸借関係を巡つて確執があつたことは疑う余地がない。

(2) 遺書の体裁をとつた書簡

五月三〇日ころ、被告人の妻モトが被告人のヤツケのポケツトに入つていた封筒の中から熊谷清蔵あての玉枝の遺書の体裁をとつた書簡を発見している。その内容をみると、片仮名書きで「会長サン ワタシ生キテ行クミチヲウシナイマシタ、コウナレバ死ヲイラブホカアリマセン ゴメンナサイ タノミマス スミマセン 会長サンヘ サヨナラ」と記載されている。鑑定の結果によれば、右書簡の筆跡が被告人のものであることは明らかである。

(3) 本件ネツカチーフ等

本件ネツカチーフ及び本件サンダルが本件松林で発見されたころ、被告人が同所付近でわら束などを掘り返したり、付近をうろついたり、不審な行動をしていたこと、本件ヘアカーラーが被告人所有の本件船小屋付近の海底、海辺から発見されていること、本件ヘアピンが発見されたのも本件船小屋であることは前述したとおりである。

(4) 玉枝の行方不明前後の被告人の行動等

玉枝が消息不明となつた六月七日早朝、被告人方から約二六〇メートル離れ、玉枝方からもその半分ぐらいの距離しかない野辺地町字馬門一二番地柴崎久蔵方前の公衆電話ボツクスにいる被告人の姿が柴崎つま子によつて現認されている。そして、そのころ被告人が一人で本件船小屋付近の海から沖に向けて全速力で船を出しているところを横浜丑之助に目撃されている。また、被告人の妻モトは、被告人が同日の朝五時ころ起きて、いつのまにか出掛けて行き、午前八時ころ家に戻つて来たのを確認しているが、朝七時ころ寝室の窓から海を見たところ、船揚場にあれば見えるはずの第三喜代丸のマストが見えないので、被告人が海へ出たものと思つていた。

なお、当審証人山崎貞治、同杉山実の各供述によれば、野辺地町漁業協同組合の幹事をしていた被告人は、玉枝が行方不明になつたころ数日間同組合に来なかつたことがあり、その後出て来たとき、被告人の顔の左鼻のわきで眼の下にひつかいたような傷跡様のものがあつたことが認められるが、関係各証拠を検討してもいかなる経緯でついたのかまでは確定できない。

(5) 被告人の不審な言動

被告人は、八月一四日に逮捕されるまで、六月一二日、八月一二日、一三日と玉枝の消息不明について参考人として事情聴取を受けた。六月一二日には、六月七日朝は田の見回りに行つて、海に船を出していないとか、玉枝から昭和五三年八月ころ金二〇万円を借りていたが、昭和五四年五月一五日前記組合から借りてそれを完済したので借金はないなどと供述していたが、八月一二日の事情聴取に際して、六月七日早朝船を海に出したことや、昭和五三年八月九日に熊谷江美の定期預金を解約して玉枝から五〇万円を借り受けた事実を認めるに至つた。

(6) 被告人以外に玉枝の行方不明にかかわりのある人物が考えられるか

熊谷清蔵は、先にみたように玉枝と親密な関係にあり、同女の行方不明の直後部落民に付近の捜索を指示したりし、一戸警部が積極的過ぎるのではないかと思うほど熱心であつた。また、玉枝は、被告人及び清蔵以外の男性とも付き合つていた節がある。しかしながら、清蔵らが玉枝の行方不明にかかわりがあることを認めるに足りる証拠はない。

右のような被告人と玉枝との愛情問題と金銭貸借は被告人が玉枝に対して殺害行為に及ぶ動機となり得る事情ではあるが、そのような事情があるからといつて直ちに被告人が玉枝を殺害したことまで推認させるものではない。遺書の体裁をとつた書簡の存在も、一応被告人と玉枝の死亡とのかかわりをうかがわせるものの、それだけでは、被告人の捜査段階における供述のように、自殺を装い玉枝を殺そうと思つて作成したのか、被告人が原審公判廷で述べるように、玉枝が自分と死ぬ気があるのかどうかを試す意図で作成したものか、必ずしもその作成の動機を確定することはできず、作成の時期も客観的な証拠からは明らかでなく、被告人と玉枝の行方不明との結び付きをそれほど強めるものではない。本件ネツカチーフ及び本件サンダルが本件松林で発見されたことと、そのころの被告人の不審な行動は、被告人が本件ネツカチーフ等を同所に置いたことをうかがわせ、ある程度玉枝の行方不明と被告人との結び付きを推測させる。玉枝のものとの疑いの濃い本件ヘアカーラーが被告人の本件船小屋付近の海底、海辺から発見されたこと、玉枝が用いていたのと同種類のヘアピンが被告人所有の本件船小屋から発見されたことは、被告人が玉枝の行方不明とかかわりがあることを疑わせないではない。しかし、上記(4)の、被告人が六月七日早朝公衆電話ボツクスにいたこと、被告人が沖に向けて全速力で操船していたことなどから、直ちに被告人が玉枝を電話で呼び出したことや、同女の死体を船で運んだことまで推認することは困難である。また、(5)の、被告人が六月七日朝は船を出していないとか、玉枝と貸し借りなしだなどと真実に反する事実を述べている点は、一方において、かえつて被告人が玉枝の行方不明とかかわつているのではないかとの疑念を生じさせないではない。そして、(6)のように、被告人以外に玉枝の行方不明とかかわりを持つ者を考えにくいことは、他面被告人が玉枝の行方不明とかかわつているのではないかとの推測を抱かせる余地を残すのである。このように、被告人と玉枝の行方不明を結び付ける事情は少なからず存在するけれども、これらの諸事情を総合考察しても、被告人が何らかの犯罪行為によつて玉枝の死亡とかかわつているのではないかとの疑惑を抱かせるものの、被告人が本件訴因である殺人、死体遺棄の犯罪を犯した犯人であることを肯認し得るものではない。

(二) 更に、所論にかんがみ、真実と思われる被告人の供述部分を併せて検討する。

まず愛情問題と金銭貸借についてみるのに、被告人が原審公判廷において自認するところによれば、次のような事実が認められる。すなわち、被告人は、玉枝の義父孫吉と親しくしていたのであるが、玉枝の夫平治の死後間もなく同女が付近の海岸から入水自殺を図つた折にこれを助けたことから同女と親しくなり、その後昭和四九年暮れころ、同女が妊娠して流産したことを知り、要求すれば被告人にも情を通じてくれるのではないかと考えて、昭和五〇年になつてから同女に言い寄り、肉体関係を持つたことをはじめとして、月に一、二度肉体関係を持つ間柄となり、同女は二度被告人の子を宿して人工妊娠中絶を行つている。被告人は、孫吉の死後公然と玉枝宅に出入りするようになり、昭和五三年三月ころから被告人の妻モトがしばらく入院した際には妻の目を遠慮することなく交情を深め、同年四月ころには五〇万円を玉枝にくれたようなこともあつた。同年八月九日に被告人が解約した定期預金は、被告人が前記組合への返済資金が不足すると言つたのに対して、玉枝が定期預金証書と印鑑を出して用立てるように渡してくれたものである。しかし、熊谷清蔵が玉枝方に頻繁に出入りするようになつた同年秋ごろから、同女の態度に変化が見え始め、うそをついて被告人を避ける気配も感じられるようになり、被告人が一一月末ころ、玉枝が行く先と言つていた同女の長男の所へ電話を掛けて、真偽を確かめるという行動をとつたこともあつた。そして、被告人は、玉枝に清蔵との関係を問いただしたりしていたが、昭和五四年一月下旬ころには玉枝方の物置小屋に潜んで、清蔵が夜九時ころ同女方を訪れて一二時ころ帰るのを見届けたりし、五月一五日には玉枝宅で同女と清蔵の情交を目撃している。なお、被告人は、その二、三日前に玉枝から正彦の学校の件で使用する金員を都合してほしいと言われていたところ、当日再び同女から呼び出されて右金員を催促されたので、前記組合から二〇万円の貸付けを受けて、翌一六日同女方へ持参した。その際、同女に領収証をくれと言つたことから同女の機嫌を損ね、罵倒されたという事実があつた。しかし、これらの事情を十分に考慮しても、前同様、被告人が玉枝に対し殺害行為に及ぶ動機となり得る事情があつたとはいえるものの、殺害行為に及んだことまで推認し得るものではない。

また、被告人は、遺書の体裁をとつた書簡を作成した動機について、前述のように、捜査段階では、玉枝の自殺を装つて同女を殺そうと思つて作成したと、原審公判廷では、玉枝が自分と死ぬ気があるかどうかを試すつもりで作成したと、それぞれ異なつた供述をするが、前者としても、訴因に適合する自白をした後の調書である八月二九日付検面調書において、二月上旬ころ玉枝を殺し自殺に見せ掛けるため遺書の体裁をとつた書面を作成したが、日がたつに連れて同女を殺そうという気持も薄らいでいつた、と述べており、そうだとすれば、右遺書の体裁をとつた書簡は、被告人の殺意の状況証拠としてそれほど高度の価値を有するものではない。

更に、本件ネツカチーフ及び本件サンダルについてみると、その動機はともかく、被告人がこれらを本件松林に置いて来たこと自体は被告人が一貫して認めるところであり、これらが同所で発見されたころの被告人の不審な行動に照らしても、右の供述は真実であると思われるところ、被告人が原審公判廷で供述するように、船小屋等に置けば玉枝の行方不明につき疑いをかけられると思つたとしても、他に疑いをかけられないようにする処分の方法はあつたのであり、それにもかかわらず右のように本件松林に置いて来たというのは、所論指摘のように不自然の感を免れない。

そして、本件ヘアカーラーが本件船小屋の床に落ちていたことは否定し難く、本件ヘアピンが同じ船小屋内に落ちていたことも認められるから、被告人が玉枝の行方不明とかかわりがあるとの感を抱かせる。

しかしながら、以上の諸点を併せ考えても、被告人が何らかの犯罪行為によつて玉枝の死亡とかかわつているのではないかとの疑念が持たれるにとどまるものというべきである。

3  以上のとおり、所論にかんがみ検討したところからすれば、関係各証拠に徴し、玉枝が既に死亡した疑いが濃く、しかも被告人が何らかの犯罪行為によつてその死亡にかかわつているのではないかという疑いが持たれるが、客観的な証拠として、殺人、傷害致死、過失致死などの犯罪構成要件を明らかにするに足りるものはなく、被告人の捜査段階における自白を除いては、本件訴因たる被告人の殺人、死体遺棄の実行行為を肯認するに足りる証拠はない。そうだとすると、玉枝の死体や殺害の実行行為のこん跡等の客観的な直接証拠を全く欠く本件において、被告人の右自白を除いては本件訴因である殺人及び死体遺棄の犯罪構成要件の重要な部分はもとよりその一部をも明らかにするに足りる証拠はない、とした原判決の判断は十分首肯することができる。

二  被告人の捜査段階における自白の信用性に関する原判決の判断について(控訴趣意第三)

所論は、要するに、原判決は、被告人の捜査段階における自白調書の任意性と信用性について、〈1〉 取調べ後短時間の間に自白がなされていること、〈2〉 供述調書の内容が捜査官の誘導によつたものとは考え難いこと、〈3〉 取調べが強制にわたつたとは認め得ないこと、〈4〉 自白によつて証拠物が発見されていること、〈5〉 供述調書の内容が具体的かつ詳細であること、〈6〉 自白の内容に専門的知識によつて裏付けられる部分があること、〈7〉 捜査官に対する自白が悔悟に基づく告白とも認め得ること、〈8〉 実況見分時における指示があること、〈9〉 自白を覆す弁解が他の証拠に照らし、又は弁解自体の自己矛盾により信用し難いことなどの詳細な理由を挙げて(原判決書一六丁表ないし四〇丁裏)、被告人の自白調書は「……内容に変遷はみられるが……任意性、信用性を具備すると解するのが自然と思われる多くの特色を兼ね備え、したがつて、その内容についてもひとまず真実ではないかと推認させる一応の証拠価値を有していることは否定し難い」としながら、次いで「仔細に検討すると、自白そのものに真実性を疑わしめるに足る疑惑が存在していることが明らかになるし、その疑惑を打ち消すべき客観的証拠も極めて少ないことが明らかになる」(原判決書四一丁表)として、自白内容の変遷と、自白内容に対する疑問の二点から検討を加え、結局自白調書の信用性を否定するに等しい結果を導いているが、被告人の自白調書には高度の信用性が認められるのであつて、原判決の判断は失当である、というのである。

既に説示のとおり、本件訴因である殺人、死体遺棄の実行行為に関し、被害者の死因、傷害の部位、程度、暴行の手段、態様等を直接証するに足りる客観的証拠を全く欠くばかりでなく、これを間接的に推認させるに足りる証拠も十分でなく、これに副う積極証拠は被告人の捜査官に対する自白調書のみである。そこで、右自白調書の信用性について、所論にかんがみ、その自白の変遷、動揺の状況、自白内容に対する疑問、自白内容が客観的証拠に符合するか、秘密の暴露を含むか、自白に至る経緯、釈放後の自白、被告人の弁解等の諸点を考察し、その証明力を検討する。

1  供述の変遷の状況について

被告人の供述の経過を概括的にみると、関係各証拠によれば、原判示のとおり、被告人は、六月一二日、八月一二日、同月一三日の三日間参考人として任意に事情聴取を受けたが、その段階では玉枝の殺害を否認し、同月一四日同女の殺害を自供して逮捕され、九月四日にいつたん釈放された後、同月二七日、一二月七日に被告人自宅において笠原静夫検事の取調べを受けたが自供を維持し、同月二一日再逮捕されるに及んで再度否認を始め、以来公判廷においても一貫して否認していることが認められる。

次に、項目別に取調べの各時点における被告人の自白内容を摘示してその変遷状況をみると、関係各証拠によれば次のとおりである。

(一) 殺害の手段、方法について

(1) 司法警察員小田桐兼太郎に対する八月一四日付供述調書

(狩場沢の大崎海岸と呼んでいる海岸から二、三〇〇メートル離れた海上において)玉枝さんを海中に突き落として殺したことは間違いありません。

(2) 司法警察員一戸貞男に対する八月一四日付供述調書(B)

(大崎の沖合二、三〇〇メートルの所で)殺し海に投げた……

(3) 司法警察員一戸貞男に対する八月一四日付供述調書(C)

(玉枝を船小屋に呼び出し、第三喜代丸に乗せて海上へ出た後、船上で口論、取つ組み合いになり、)右手でいつぱい顔を殴り付けた後、両手で玉枝を力いつぱいにどんと押したところ、玉枝は、エンジンの所にある金属で出来ているドラムに頭の後ろをがちんとぶつかり、そのまま倒れてしまつたのです。そのまま死んだのですが……

(4) 八月一五日付員面調書(B)

(船小屋で口論の末)玉枝をところかまわず殴り付けたら、玉枝はその場にしやがみ込んでしまつたのです。更に私は、玉枝を襟の辺りをつかんで立たせ、また殴り付けたら、玉枝は船小屋にあつた金属製の二輪車に頭の辺りをぶつつけて、船小屋のコンクリートの上に寝たようなかつこうで倒れたので、更に私は、玉枝の上に馬乗りのようにして、玉枝の頭をコンクリートに打ち付けたのです。その時、玉枝はまだ足を動かして私を払いのけようとしていたので、私も興奮してしまい、更に玉枝の頭を押さえ付けたり、コンクリートの床に打ち付けたのです。私の船小屋のコンクリートは、平面でなくて、ごつごつと凸凹があるのです。その出つ張つた所にでも打つたのか何回も打ち付けていたところ、私と玉枝は逃れようとしたり、もがいたりしてコンクリート上をぐるぐる回りながらそうしていたら、玉枝が頭にかぶつていたネツカチーフは取れてしまつたし、サンダルはもちろん脱げてしまつており、更に髪に着けていた髪をねじらかす赤い丸い物も二、三個取れたのです。そしてコンクリートに少しですが血も出ていたのです。そのようにして玉枝さんの頭をコンクリートに押さえたり打つたりしているうちに、玉枝さんは足を蹴り上げなくなつたなと思つたら、急に頭ががくつとなり、目を開けたまま動かなくなつたのです。私は、びつくりしてしまい、「殺した」と思つたら、玉枝の頭の後ろの方から血が流れ出して来たので、玉枝がネツカチーフの下に巻いてあつた日本手ぬぐいで玉枝の頭の血をふいたのです……

(5) 検察官に対する八月一六日付弁解録取書

(玉枝を船小屋に呼び出した。そこで口げんかになり、取つ組み合いのけんかになつた。)そうこうするうち、玉枝があお向けに転びました。私がなおも殴り掛かつて行つたところ、玉枝が抵抗して両足で私を蹴り付けてきたので、私は腹が立ち「この野郎」と思つて、左手で私を蹴り付けてくる両足を振り払いながら、右手で玉枝の右あごの辺りをつかんで玉枝の後頭部を四、五回船小屋のコンクリートに思い切りたたきつけたのです。(中略)玉枝の頭をコンクリートにたたき付けながら「この野郎、死んでしまえ」という気持ちで、思い切り玉枝の頭をコンクリートにたたき付けたのです。すると、玉枝は目を開けたままぐつたりとし、途中まで抵抗していたのに、両足もぐつたりとしてしまいました。その様子を見て私は死んだと分かりました。

(6) 裁判官に対する八月一六日付陳述録取調書

最初から殺すつもりはありませんでしたが、その現場で玉枝と口論し、けんかになつて「かつ」となつて、取つ組み合いとなり、そしているうち、女は倒れ、その足で立つている私の身体を蹴られ、それを押さえて顔面を押さえ、右手で頭をコンクリートに四、五回ぶつけているうちに、蹴るのをやめて、ぐつたりなつてしまいました。

(7) 八月二四付員面調書(D)

そして、殺してやると叫んで玉枝の顔と肩に両手を掛け、力いつぱいに下の方に向けて突いたら、玉枝はひとたまりもなくあお向けに倒れたのです。(中略)私に両手で突き倒されたら、玉枝は一歩位下がつてすぐあお向けにその場に倒れ、その時船小屋にあつた二輪車に頭の後ろをぶつけてがつんと音がしたら、そのまま崩れるようにしてゆつくりコンクリートの上にあお向けに倒れ、ぐつたりとなつて口からうーうーと声を出し、手がゆつくりぴくつぴくつと動いていたので、私は一気に殺してしまうつもりで、あお向けに倒れている玉枝の左腕をまたぐようにして玉枝の左肩の脇に右膝をつき、立て膝のかつこうになり、うーうーと声を出している玉枝の口と鼻を力いつぱい左手で押さえてふさぎ付け、右手で玉枝の頭が動かないように額を押さえ、私の膝を上げるようにして身体中の力で鼻と口をふさいだら、玉枝はうーうーという声も出せなくなりましたが、私はこれでも死ななければ両手で首を絞め付けて殺してやると考えていたが、口と鼻を左手でふさぎ、右手で顔を押さえて力いつぱいにふさいで、間もなく玉枝の頭ががくつと右の方に少し力が抜けたようになつて、目を開いたまま動かなくなつたのです。私は玉枝が死んだなと思つてから一息して手を離したが、目を開いたまま全く動かなくなつていたのです。

(8) 八月二七日付検面調書

右手を肩に掛けて強く押し倒したところ、玉枝が後ろによろけてあお向けに転び、近くにあつた鉄製の手押し車に頭を打つて「うーん、うーん」などとうなり声をあげながら動かなくなつてしまいました。そこで、うなり声が外に漏れないように再び玉枝の口を左手でふさぎ、この時玉枝の鼻も同時にふさいだと思うのですが、右手で玉枝の左あごの辺りをつかんで、船小屋のコンクリート床に玉枝の頭をたたき付けたのです。そのうち玉枝はぐつたりとなつて全身の力が抜けてしまいました。玉枝が死んだのがわかりました。

(9) 八月三〇日付検面調書(B)

立つたまま、私は玉枝の口をふさいでいたのですが、玉枝が私の左手を外そうとしたり、肩の辺りをたたいたりして暴れるので、後頭部を押さえ付けていた右手を離し、すかさず玉枝の左肩の辺りを右手で押して突き倒すようにしたのです。玉枝が暴れるので、転ばしてやろうと考えたのです。私が右手で玉枝の左肩の辺りを突くと、玉枝はその場でよろけるようにあお向けに倒れてしまいました。そしてあお向けに倒れた時、後ろにあつた二輪車の図(二)の二輪車に×印を付けた辺りに後頭部の辺りをぶつけてしまいました。その時、恐らく玉枝の後頭部が二輪車にぶつかつた音だと思われるがつつというような音と、二輪車が玉枝のぶつかつたシヨツクで揺れたため、コンクリートとこすり合つた時出るような音のがちがちという感じの音とが交じり合つて聞こえました。そしてその後玉枝は二輪車の横にあお向けに寝転がつてしまいました。この時の様子を図(三)に書いて提出します(中略)。図に×印を書いた所が、玉枝があお向けに転んだ時頭をぶつけた所です。玉枝が転んだところを上から見た様子です。玉枝は、二輪車の鉄棒に後頭部をぶつけ、あお向けに倒れたまま、ぐつたりした感じでうーんなどと少し大きなうなり声をあげながら、ゆつくり手足などを動かし、ぴつたりした表現ではありませんが、ゆつくりのた打ち回るといつた感じでした。私は、そんな玉枝の様子を見て、一瞬「いつたな」などと、玉枝は死んでしまつたという感じを持ちました。しかし、玉枝のうなり声は船小屋の外にもし人がいたりすれば聞こえるかもしれないほどの大きさだつたので、もしこのままにしておけば、まだ完全に死んだわけでもないし、また誰かに玉枝のうなり声を聞かれては大変だと判断し、すぐに玉枝の両足の間に左足を入れて膝をつき、立ち膝のようにして玉枝の左足を私の両足で挟むようにしてまたがり、左手を伸ばして玉枝の口をふさぎ、一気に息の根を止めてしまおうと考え、左手で玉枝の口を強くふさいで押し付け、右手を玉枝の左こめかみの辺りに当てました。左手で玉枝の口をふさいで力を込めると、玉枝の鼻もつぶれたような感じになつて鼻の穴もふさがりました。玉枝は口と鼻の穴をふさがれると、何回か強く頭を動かしました。そこで私は、右手で玉枝の左こめかみの辺りを押さえ付け、口と鼻の穴をふさいでいる左手に力を入れるだけでなく、上半身を乗せるようにしてぐいぐい両手に力を込めたのです。私が上半身を乗せて両手に波を打つような感じでぐいぐい力を込めたので、玉枝の頭はコンクリートの床にこすり付けられたような感じになりました。

(10) 九月四日付検面調書(B)

私が玉枝に約束を破つたりしたことで文句を言うと、玉枝は憎まれ口をたたいて私にかかつて来ました。そこで私は、玉枝の左肩の辺りを右手でたたいたのです。左肩をたたいたといつても、あるいは首の辺りをたたいているかもしれないので、その辺は考慮して下さい。そして、私と玉枝の位置が入れ替わり、その後玉枝が声を出しそうになつたので、左手で玉枝の口をふさぎました。玉枝の口をふさいだ左手が外れないように右手で玉枝の後頭部を支えました。そのうち、右手で玉枝の左肩の辺りを強く押したところ、玉枝はその場によろけるように転び、後ろにあつた二輪車に頭をぶつけ、コンクリート床に倒れてしまいました。そして、うなり声をあげ始めたので、人に聞かれては大変だと考え、玉枝の口を左手でふさいだのです。それまで、私は、玉枝を殺す方法としては玉枝の首を絞めたりしてやろうなどと考えていたのですが、左手で玉枝の口をふさいでいた時、一気に息の根を止めてやろうと判断し、右手を左こめかみの辺りに当てて左手に力が入るように体の重みを加えたのです。上体を乗せつぱなしにしたのではなく、ぐいぐいと力を加えたので、私の上体は波を打つようになりました。どれ位の時間そんなことを続けていたのか夢中だつたのではつきり言えませんが、私の両手に玉枝の体がびくめいているのが伝わつてきました。びくめいている感じというのは、ぴくぴくと動いた感じという意味です。(中略)玉枝の口などを左手と左こめかみの辺りに押さえた右手にびくめいている感じが伝わつてきました。そして、そのうち玉枝の体が動かなくなつてしまつたのです。

(二) 死体を遺棄した場所について

(1) 司法警察員一戸貞男に対する八月一四日付供述調書(A)

私は、熊谷玉枝さんを私の船の第三喜代丸から海に捨てた場所は先ほど話した狩場沢の大崎の沖合約二、三〇〇メートルの海と話してきましたが、そのとおり絶対に間違いありません。(中略)野辺地漁協の海区であれば知つている人に見られるといけないと思い、隣りの平内漁協の海区に行つたのです。

(2) 八月一五日付員面調書(B)

初めから海に捨てるつもりであつたが、私達帆立業者は、海中いつぱいに帆立の「ノシ」が入つているのを知つているし、他人の「ノシ」には入れないし、入れば変に思われるのです。私は、他人の「ノシ」に捨てるわけにはいかないし、また、狩場沢の海域には玉枝を捨てたくないので、船を海に出す前から、玉枝さんの死体を自分の「ノシ」に捨てようと考えていたのです。(中略)私の「ノシ」の狩場沢寄りの境界の端にアンカーの付いている側の所で船を止めて……玉枝の死体を沈めた。

(3) 八月二一日付員面調書

私が熊谷玉枝さんを投げ捨てた場所は、これまで話をしてきた私の帆立の八六番の「ノシ」の所ではありません。本当のことを申し上げます。信用して下さい。実際に熊谷玉枝さんを投げ捨てた場所は、狩場沢の大崎岬の所です。(中略)私は、最初から熊谷玉枝の死体は「ノシ」に沈めることは考えておりませんでした。初めから熊谷玉枝が自殺したと見せ掛けようと計画していたものですから、なるべく熊谷玉枝の死体が岸に流れ着いた方がよいと思つていたし、「ノシ」であれば、私達漁師は毎日のように出掛けて行く所でもあり、また、「ノシ」は海面に出ている「ノシ」のほかに海中に沈んでいる「ノシ」もいつぱいあるので、「ノシ」の中間に入れることは難しいのです。それだから初めから、大崎の岬の方であれば知つている人もいないし、その沖合に投げ棄てようと思つていたのです。

投棄場所に関するその後の員面調書及び検面調書の内容は右と同旨である。

(三) 死体を第三喜代丸に引き揚げる方法について

(1) 八月一五日付員面調書(B)

自力で船に揚げれないと思い、いつたん第三喜代丸のドラムを使つて帆立かごに入れた玉枝の死体を船に揚げようとしたが、船をつないでいるロープにかごが引つ掛かつてひつくり返りそうになつたので、自力で揚げることにして二輪車の上に上がり、かごに手を掛け、ようやくかごの片方の方だけ船の防舷材に引つ掛けて留め、それから反対側を持ち上げて、かごから玉枝の死体を船の甲板にあけるようにしてようやく船の上に揚げた。

(2) 八月二一日付員面調書

死体の入つた帆立かごに付近にあつたロープを利用し二か所に掛け、ドラムから延ばしたロープのかぎを帆立かごに掛けたロープに掛け、滑車を利用して、片方の手でロープを引つ張り、片方の手でかごを持ち上げ、一生懸命滑車を引つ張り、死体の入つた帆立かごを足を使つたりしてようやく舷の所まで引き上げ、帆立かごの真ん中が舷の所まで来たときに押し転がすようにして帆立かごを船の甲板の上に倒して揚げた。

(3) 八月三一日付検面調書

玉枝の死体の入つた帆立かごにかぎを掛けた後、ドラムのボタンを操作してかごを持ち上げたところ、ウインチ小屋から延びているロープの先端にあるかぎにかごが引つ掛かつたので、ドラムのスイツチを切つた。そして二輪車にまたがるようにして上り、ロープを手で引つ張り、片手でかごを手前に引いたりしたうえ、再び両手でかごを持ち上げ、舷の上に載せ、押すようにして甲板に揚げた。

(四) 死体遺棄の状況について

(1) 八月一五日付員面調書(B)

玉枝の死体にかごの中央に掛けたロープを巻き付けて結び、そのロープに船の「オモテ」の右側にあつたかれい網に使う石を付け、石を先に防舷材に揚げ、更にその防舷材に玉枝の死体を揚げてから、石を海に押して落としたら、石に引つ張られて玉枝の死体も船から落ちていつた。

(2) 八月二一日付員面調書

玉枝の死体を取り出し頭の方を先に船の舷に揚げ、足の方を揚げて船の沖側の方の海面に落としたら、玉枝の死体は沈んで行かず、海面に浮かんだので、余りにも目立つ、すぐにでも陸に流れ着くと思い、取りあえず沈めようと思つて、船の「オモテ」の方からかれい網に使う重石を持つて来て、船べりから身体を海に乗り出して死体を引き寄せ、足の方を引き寄せてから、重石のロープを玉枝の足に結び付け石を放したら、玉枝の死体はまつすぐ、ゆつくり海中に沈んでいつた。

(3) 八月三一日付検面調書

玉枝の死体は、うつ伏せになつて海に落ち、一尺五寸ほど沈んだ後、間もなく浮き上がつてきたので、重石を付けて沈めた。

(五) 玉枝を本件船小屋に呼び出した動機について

(1) 司法警察員一戸貞男に対する八月一四日付供述調書(C)、及び同月一五日付員面調書(B)

玉枝が熊谷清蔵と懇ろになり、被告人に冷たくなつたので、話を付けとつちめてやろうと考えた。(もつとも、右の一五日付員面調書には、初めから海に捨てるつもりであつたとの供述部分もある。)

(2) 検察官に対する八月一六日付弁解録取書

初めから殺すつもりで呼び出したのでなく、セツクスしようと思つて呼び出した。

(3) 八月二四日付員面調書(B)、(D)及び同月三〇日付検面調書(B)

六月二日に三二の結婚式があり、同人らは九日か一〇日まで新婚旅行に行つて家には妻しかおらず、七日から一一日まで漁が休みになるので、この間に玉枝を殺してやろう、早朝玉枝を船小屋に呼び出して殺害し、船に乗せて沖合で投棄しようと決心し、一人で船を出せる凪の日をねらつていたところ、七日早朝目を覚ますと波が静かだつたので、計画を実行に移した。

(六) 遺書の体裁をとつた書簡の作成時期について

(1) 八月一八日付員面調書(A)では「五月末ころ」、

(2) 八月二四日付員面調書(A)、(D)では「一月中旬ころ」、(3) 八月二九日付検面調書では「二月上旬ころ」という供述の差異がみられる。

(七) 八月一四日に大崎海岸へ行つた動機について

(1) 司法警察員一戸貞男に対する八月一四日付供述調書(B)、同月二〇日付員面調書(B)及び九月二七日付検面調書

ネツカチーフに包んだサンダルは私が海岸の松林に置いたもので、せめてそのサンダルとネツカチーフを拝んで供養したいと思つた。

(2) 八月二四日付員面調書(C)

玉枝の死体が海岸に漂着したり、サンダルとネツカチーフを誰かが発見していれば、玉枝が自殺したと思われるのにと思い、死体の漂着の有無を確かめ、ついでにサンダルとネツカチーフの様子を見るために行つた。

(八) その他

原判決指摘のとおり、死体を帆立かごに入れた方法や船を出した時刻など、細部において、多岐にわたる供述の変遷が見られる。

2  自白の変遷の程度及びその原因、理由について

原判決は、右自白の変遷を分析し、〈1〉 右自白の変遷は、「被告人が実際に自分が体験した事実の記憶にもとづいて供述しているのかどうか、換言すれば被告人が供述している犯罪行為が実際に存在したかどうかの蓋然性をも疑わしめる程度に達しているとみるのが相当である。」、〈2〉 「その変遷の理由が合理的に解明されなければ、検察官の訴因を裏付ける供述調書の記載(犯行の方法については54・8・24(D)員調書、死体の遺棄場所については54・8・21員調書以降の供述調書)の信用性も根底から覆えすことになるものといわなければならない。」が、「その変遷の理由も必ずしも明確でない。」、〈3〉 「そのため、右の供述調書の信用性を肯定するためには、少なくとも、それ以前の供述内容が虚偽で、検察官の訴因を裏付ける部分の供述が真実であることについての情況が適確に認定される必要があるということになろう。」、ところが、「変遷後の供述が真実に合致することを認めさせるに足る客観的証拠もなく、また供述の情況保障も十分とは言い難いところがあるので、その変遷後の供述を有罪認定の証拠とすることについては慎重であるべきものとするのが相当である。」と説示する。そこで、原判決の右判断の当否を(一) 自白の変遷の程度、(二) その原因、理由の項に分けて順次検討する。

(一) 自白の変遷の程度

原判決指摘のように、犯行が激情による殺人という重大な犯罪である場合、犯人側にも興奮、驚がく、恐怖、憎悪等様々な情動の変化による記憶の障害を伴いやすく、犯行後その一部始終について細部にわたり正確な供述を求めることは期待し難く、時の経過により一層正確な供述を求めることが困難になる事例が少なくない。また、体験の異なる角度からの説明あるいは取調べの重点の置き方の相違等によつて供述に変遷が生ずることもあり得る。したがつて、供述の内容に変遷、動揺があるからといつて、直ちに体験事実を述べたものでないと即断して供述の信用性を否定し去ることはできず、変転、そごする供述の内容程度に応じて慎重な検討を要する。

そこで、まず被告人が殺害の手段、方法について供述するところをみると、前記1(一)の(1)ないし(3)の各供述内容と(4)以下の各供述内容とでは、殺害の場所を全く異にし、これと相まつて殺害の方法も大きく異なるばかりでなく、殺害場所の供述が本件船小屋に変わつた後の前記(4)以下の供述だけをみても、(4)ないし(6)では、玉枝の頭部をコンクリートに打ち付けた、たたき付けた、そのうちぐつたりとしてしまつたなどと供述するのに対し、(7)では、鼻と口をふさいだ、間もなく動かなくなつたと供述し、更に(8)では、口、鼻をふさいだことと、頭部をコンクリート床にたたき付けたことの両者を述べ、(9)、(10)で再び口、鼻をふさいだと供述する。もつとも、右の(4)ないし(6)において供述する殺害の方法と(7)、(9)及び(10)において供述する殺害の方法とは、それぞれ(8)において供述する、口、鼻をふさぐことと頭をコンクリート床に打ち付けることとの二つの殺害の方法の一つにほぼ相応する関係にあるともみられないわけではないが、それが同一の事実を異なる角度から説明し、あるいは取調べの重点の置き方が違つていたことによるものであるとするならば、程度の差はあれ、(4)ないし(6)でも、また(7)、(9)及び(10)でも、口、鼻をふさぐことと頭をコンクリート床に打ち付けることの双方に触れてしかるべきと思われるのに、(4)ないし(6)では口をふさぐ等の行為については触れられておらず、他方、(7)、(9)及び(10)では頭をコンクリート床にたたき付けたなどの供述はなく、しかも、床に倒れた後の玉枝の動静について、(4)ないし(6)では、玉枝が倒れて後、足を動かし被告人を払いのけようとした、蹴り付けてきた、被告人はこれを払いのけようとしたなどと述べているのに対し、(7)及び(9)では、ぐつたりとなつて、手がゆつくりぴくつぴくつと動いていた、ゆつくり手足などを動かし、ゆつくりのた打ち回るといつた感じでしたと述べ、右(4)ないし(6)におけるような玉枝の動きとは異なる供述をしている(なお、右のような被害者の動きの程度は、後に触れる、口と鼻をふさいで窒息させることが可能かということにも関連し、重要な意味を持つ。)。してみると、以上のような殺害の場所、方法に関する供述の食い違いは、原判決も説示するように体験の異なる角度からの説明あるいは取調べの重点の置き方の相違で説明し切れるものではなく、また、情動の変化による記憶障害あるいは記憶の減退で説明できる程度のものでもない。そして、以上のほか、(5)では二輪車について全く触れられておらず、また、玉枝の口をふさいだときの被告人の位置について、(7)では、「玉枝の左腕をまたぐようにして玉枝の左肩の脇に右膝をつき」と述べているのに対し、(9)では、「玉枝の左足を私の両足で挟むようにしてまたがり」と述べていること、その他細かい点でも供述の変遷、動揺がみられる。

次に、死体の投棄場所について供述するところをみると、前述のとおり、大崎海岸沖、本件ノシ、大崎海岸沖と供述が三転しているが、司法警察員作成の一〇月一三日付「海上捜索状況について」と題する書面に添付の地図(記録二冊三八七の一六三丁)、八月三一日付実況見分調書に添付の目撃追尾状況見取図(No.1)(記録四冊三八七の四三八丁)、同月二七日付検証調書に添付の図面(記録五冊三八七の五一二丁)等の関係各証拠によれば、本件ノシと大崎海岸沖の各投棄場所は地図上の直線距離で三キロメートル以上も離れており、また、当審における海上の検証の結果によれば、本件ノシは陸地から遠く離れているのに対し、大崎海岸沖の投棄場所である海上からは同海岸を近くに望見することが可能であつて、これらの点にその他、原審証人小田桐兼太郎の第二六回公判期日における供述、当審証人木明正志の供述等を併せ考えると、本件ノシと大崎海岸沖の両者を混同、誤認する余地はないものと判断される。

更に、死体を第三喜代丸に引き揚げる方法に関する供述の変遷等も、詳細な説明を要する具体的な方法の相違であつて、通常記憶喚起の過程で起こり得るような、問題視するに足りない程度の供述の変更にすぎないものとは思料し難い。

以上のように、本件においては、自白内容に重要な、かつ多岐にわたる変遷があり、これら自白内容の変遷の状況を総合考察すると、その変遷は、果たして被告人が実際に自分が体験した事実を記憶に基づいて供述しているのかどうか、換言すれば、被告人が供述しているような犯罪行為が実際に存在したかどうかの蓋然性をも疑わしめる程度に達しているとみるのが相当であるとした原判決の判断は、首肯するに足りるものというべきである。

(二) 自白の変遷の原因、理由

所論は、原判決は、一般に被疑者が意識的に客観的な真実と異なる供述をすることがあるとの観点からの検討や、客観的な証拠によつて認められる本件の実相を踏まえての検討を欠落し、専ら取調べの際、捜査官が誘導等をしたために供述の変遷という外観を呈する結果になつたのではないかというような、いわば一方的立場から分析検討を行つたにすぎず、被告人の右の自白内容の変遷の経過を、客観的証拠によつて認められる本件の実相を踏まえてみるならば、明らかに、被告人は、最も自己に有利な、換言すれば最も自白しやすい形で供述したが、その不自然性、不合理性を指摘されて次第に本件の実相に合致する供述をするに至つたことが看取され、原判決が捜査官側の押し付け、ないし誘導を疑うこと自体、事件捜査の実態を無視した不合理なものといわざるを得ない、というのである。

そこで、以下、所論に即し具体的に検討する。

(1) 被告人に有利な供述から不利な供述へ変遷したものといえるか否かについて

所論は、「頭をコンクリートに打ち付けて殺害した」という供述部分を、一連の供述の変遷の流れを踏まえて観察すれば、失神して無抵抗な玉枝の鼻口部を手でふさいで殺害したというよりは、「頭を打ち付けているうちに死んでしまつた」という方が一時的な激情に基づく犯行を装つて有利である、という。

しかしながら、被告人は、誰かに玉枝のうなり声を聞かれては大変だと判断し、同女の口をふさぎ、一気に息の根を止めてしまおうと考え、左手で同女の口を強くふさいで押し付けた旨右犯行の手段、方法が偶発的な、とつさの判断に基づくかのようにも述べており、また、コンクリートに頭を打ち付けたという手段、方法の方がより残忍であるとも解されるのであり、一概にいずれが被告人にとつて有利であるとも決し難い。

更に所論は、「死体を八六番ノシに捨てた」との供述は、それ自体、自己に有利に偶発的犯行を装つて船上で殺害したとしていた供述の一部分をなしているのであるから、被告人が自己に有利に右のような供述をすることは十分考えられる、という。

しかしながら、船から海中に玉枝を突き落として殺した旨の供述がなされている八月一四日付の司法警察員小田桐兼太郎に対する員面調書及び海上で玉枝を殺し海に投げ捨てた旨の供述がなされている同日付の司法警察員一戸貞男に対する供述調書(B)では、いずれも大崎海岸沖で死体を捨てたとなつており、他方、死体を本件ノシに捨てたと述べている供述調書では、殺害場所が本件船小屋である旨供述しているのであつて、所論指摘のように、死体をノシに捨てたとの供述が船上で殺害したとしていた供述の一部分をなしているものではないから、所論は前提を欠き失当である。

所論は、前記1の(四)の死体投棄の状況、同(五)の玉枝を本件船小屋に呼び出した動機、同(六)の遺書の体裁をとつた書簡の作成時期についての供述の変遷も、被告人が自己に有利に、偶発的な犯行であるように装おうとしたためもたらされた供述変更とみることができるし、また、そのように推認するのが自然である、という。

しかし、1の(四)の死体投棄の状況については、むしろ、最初から死体に石を付けてこれを海中に投じた趣旨の八月一五日付員面調書(B)の供述の方がより計画性をうかがわせるのに対し、死体を海中に捨てたが死体は沈んでいかなかつたので、重石を探し出して死体に結び付けたという八月二一日付員面調書の供述の方が偶発的とも考えられ、(五)の玉枝を本件船小屋に呼び出した動機については、所論のように、偶発的で被告人に有利な供述から計画的で被告人に不利な供述に変遷しているものとみることができるが、このことから、これをその他の点に推し及ぼして被告人の供述の変遷の全般的傾向であると断ずるのは相当ではなく、(六)の遺書の体裁をとつた書面の作成時期については、その作成の動機が玉枝を殺害するためであつたとしても、一月中旬や二月上旬の方より五月末ころの方が犯行日とされる六月七日に近いが、その一事をもつて後者の方がより犯行の偶発性を裏付けるなどとはいえないばかりでなく、九月二九日付検面調書をみても、二月ころ殺意を抱いたが、その後その気持ちは薄らいだと述べているのであつて、右書面作成の時期を五月末ころとする方が被告人にとつて有利であるとも一概には決し難い。

なお、所論は、その余の変遷部分は、犯行後約二か月余を経過した時点における供述である以上、記憶喚起の過程において当然起こり得る供述変更とみられるのであつて、特に問題視するに足りないものである、というが、例えば、死体を第三喜代丸に引揚げる方法に関する自白について、前記「(一)自白の変遷の程度」の項で述べたように、必ずしも犯行後の時間の経過に伴い当然起こり得る供述変更であるとも断言し難いものと思料されるのであつて、殺害の方法、死体遺棄の場所等の自白の変遷の状況等に徴しても、一概に所論のように右自白の変遷が記憶喚起の過程において起こり得るもので問題視するに足りないということはできない。

以上のとおり、本件の自白の変遷は、所論のように、当初自己に有利なことを述べていたが、後に自己に不利益な真実を述べるに至つたということでは説明し得るものではなく、また、記憶喚起の過程で通常起こり得るものであるとして、問題視するに足りないと断じ得るものでもない。なお、被告人が罪責を回避しようとして有利、不利を問わず虚偽の供述をしたものと断ずべき証拠もない。

(2) 捜査官の押し付け、ないし誘導によつてもたらされたのではないかとの疑いについて

捜査官の取調べに当たつての理詰め、誘導の尋問が全く否定されるものではないが、その主観的意図いかんにかかわらず、虚偽の自白をもたらすおそれがあるので、この点については慎重な検討を要する。

そこで、まず上記のような疑いを抱かせる事情があるかどうかを考えてみるのに、玉枝の死体を投棄した場所について、被告人の供述が、八月一四日の取調べにおいては狩場沢の大崎の沖合、翌一五日の取調べにおいては本件ノシ、更に同月二一日の取調べにおいては再び狩場沢の大崎海岸沖と三転していることは先に述べたとおりであるところ、被告人の取調べにあたつた一戸警部は、原審第一四回公判期日において、八月二一日、被告人が、玉枝の死体を投棄した場所は本件ノシではなく、大崎海岸沖である旨供述した際、本件ノシと供述した理由について、「小田桐さんに大崎海岸のほうに投げたと言うと、もう既に玉枝の死体は流れ着いてなければならないんでないが、ということにして言われるので、そこを言わなくて、またそこでなかつたし、ノシの下だというふうに話ししたんだと。だけども、やつぱり考えてみたら、考えてみたらと言うより、本当は大崎の海岸のほうなんだと。……」と述べた旨供述し、同第二五回公判期日において、最初小田桐係長には大崎海岸沖に捨てたと供述し、その旨の調書が作成されたが、「大崎の海岸であれば死体は漂着するだろうということを小田桐係長に追及された」と被告人が述べた旨供述している。そして、被告人は、九月三日に至つて検察官に対しても、小田桐警部補が、被告人のいうとおりであれば死体は海岸に打ち上げられているはずだから、死体を捨てたのは被告人のノシのところに間違いないと言つて、被告人の供述を受け入れようとしないので、うそと知りつつそう話したと、一戸警部に対すると同様の供述をしている。このように、被告人は、取調官の追求にあつて供述を変えた旨同じ捜査官に対し八月二一日という比較的早い段階から一貫して供述している。しかも、被告人は、原審公判廷においても、警察は、被告人が玉枝を電話で自分の船小屋に呼び出し、船小屋で殺して、船に積んで八六号の「ノシ」に捨てたはずだ、警察は絶対うそは言わない、警察の言うのは本当だ、と決めつけるので、八六号の「ノシ」の場所へ捨てたと言つた旨供述している。これらの事情を併せ考えると、取調官の追求により投棄場所についての供述の変遷がもたらされた旨の被告人の弁解を否定し難く、このことは、その他の事項についても、取調官の押し付けや誘導があつたとする被告人の弁解を一概に排斥し難いことをうかがわせるものである。更に、捜査状況と被告人の供述の変化を相対比してみると、捜査の進展に沿つた被告人の供述の変遷もみられ、直接的な物証等を欠くために、取調官が捜査の結果刻々に把握した事実を基にそこから推測し得る事実を模索しながら取調べをし、その際ある程度強引な誘導がなされたのではないかとの疑いを払拭し去ることはできない。例えば、被告人は、原審公判廷において、「警察が言うのは本当だ、と決めつけられて、八六号のノシの場所に捨てたと言つたが、何日捜しても死体が出てこなかつたら、自殺に見せ掛けるために大崎沖に捨てたろうと言われて、大崎沖に捨てたことにされてしまつたので、自分から場所を変更して供述したのではない。」と供述するが、死体捜索の状況をみると、前述のように、被告人が八月一五日の取調べで玉枝の死体を本件ノシ付近に遺棄したと自供したので、翌一六日から二一日までの間、本件ノシ付近の海底の捜索がなされたものの、死体は発見されるに至らず、投棄場所についての被告人の供述が変わつたのは二一日であるから、それまで本件ノシから死体が発見されなかつたため、投棄したのは別の場所ではないかとの疑いが取調官に生じ、やはり手掛かりになる本件ネツカチーフ等が発見された大崎海岸沖ではないかということで追求されたことがうかがわれないわけではなく、被告人が死体投棄場所の変遷について弁解するところもあながち否定し去ることはできない。殺害方法の変遷についてみても、被告人は原審公判廷において、八月一五日付員面調書(B)と同月二四日付員面調書(D)で犯行の態様についての供述が変遷している点につき、自分から改めて述べたのではなく、警察の方でこういうふうにやつたんだろう、ああいうふうにやつたんだろうと言うので、それにただ合わせて、はいはいと言つたのがそういうふうにできたと思う、後の調書で口をふさいだとなつているのも、取調官がそう変えてしやべつたから、それにはいと言つたためにそういうふうな調書になつたと供述しているところ、右供述を直ちに全面的には信用し難いとしても、一戸警部は原審第二四回公判期日において、八月二四日の取調べに当たつてルミノール反応の結果も出て来ないことは聞いていた、いくら捜しても死体が発見されなかつたので、死体が発見されないで終わることを想定してもう一回殺害の方法を聞いていつたところ、被告人の供述が変わつた旨述べており、右のような捜査の状況と被告人の供述の変遷を対比して考えると、原判決が指摘するように、取調官がルミノール反応等が全く検出されなかつたという状況のもとで可能な殺害の方法を模索しながら、その推測に副つた取調べを行つたのではないか、そして、右のような捜査の経過に照応して、鼻口部をふさいで殺害したという殺害方法に被告人の供述も変遷したのではないかとの疑いを払拭し難い。また、後に述べるように、本件が計画的犯行であるとするのは甚だ疑問なのであるが、それにもかかわらず、被告人が自白調書において計画的であるように供述しているのは、被告人の自供に捜査官の思惑が色濃く反映しているのではないかとも疑われる。

なお、被告人が九月三日付検面調書及び同月四日付検面調書(A)において供述変更の理由について供述するところは、全面的に信用し得るものではないにしても、右にみたように、一戸警部の原審公判廷における供述等他の関係各証拠を併せ検討すると、本件における被告人の供述の変遷については、取調官の押し付け、あるいは誘導による影響が全くなかつたとはいえないのではないかとの疑いをぬぐい去ることができない。

ところで、弁護人は、被告人が取調官により主観を押し付けられ、あるいは被告人がこれに迎合して虚偽の自白をしていつた客観的条件は、(1) 警察官の暴行を背景とした苛酷な追求的取調べであり、(2) また、取調べが連日長時間にわたり、老齢である被告人が精神的、肉体的に極度の疲労状態にあつたことである、という。そこで、関係各証拠に徴するのに、まず警察官の暴行の有無についてみると、三二の原審第一八回公判期日における供述によれば、被告人は保釈後二、三日を経たころ(否認に転ずる前)、三二に対し、警察官から扇子で突かれたり、鉄管に頭をぶつけられたりした旨訴えたというのであり、また、被告人は、再逮捕に際しての弁解録取時、笠原検察官に対し、一戸警部から黒の革靴で足を蹴られ、扇子で胸を小突かれた、鉄管に頭をぶつけられた旨訴え、更に、原審公判廷において、同警部の取調べにつき被告人のため配慮してくれた事実は事実としてこれを認めるとともに、同警部から暴行を受けたのは八月一三日であつて、それ以降は暴行を受けていない旨日を特定して訴えている。しかしながら、三二は原審第一八回公判期日において、被告人が三二に対し八月一四日警察へ出頭する前、警察に行けば胸をつかまれたりなんだり、たばこをのませてくれないとか、そんなことは言つていたが、扇子で突かれたとか言つていた記憶はないとも述べており、被告人が八月一三日の警察での取調べの際に警察官から真実扇子で突かれたりしたのであれば、胸をつかまれたりしたと述べるより扇子で突かれたとか、鉄管に頭をぶつけられたとか、より強い態様の暴行の事実を述べてもよさそうに思えるのに、そのようには述べていないこと、また、被告人は、一戸警部が履いていた革靴の色について、検察官に対しては黒と述べているのに、原審及び当審公判廷においては白と矛盾した供述をしていること、一戸警部は、原審第一三回、第一四回各公判期日において、被告人の事情聴取の際、警察官川村卓司から借用したグリーンの健康サンダルを履いていた、野辺地警察署に来たときは、茶色のメツシユの革靴を履いていたが、これを脱いで洗面所の下に置いていた、八月一九日青森へ戻つたとき扇子を持つて来て、同日調室に右扇子を持ち込んだことはあるが、同月一三日の取調べの際には扇子を所持していなかつた、被告人主張のような暴行を加えたことはない旨供述しており、被告人や三二の供述のほかには一戸警部の右供述の信用性に疑いを容れるべき証拠が見当たらないことなどを併せ考えると、捜査官が被告人に対し、玉枝に対する殺人、死体遺棄の嫌疑を持ち、八月一二日から九月四日までの間ほとんど連日にわたつて相当長時間の取調べを行い、老齢の被告人に精神的、身体的にかなりの疲労を与えたことは推測するに難くないにせよ、被告人の自白の任意性をも否定するような不当な暴行ないし強制を加えたことはなかつたものと認められる。それゆえ、弁護人の、警察官の暴行を背景とした苛酷な取調べが行われたとの主張は採用し難い。

また、所論は、(1) 玉枝殺害の場所が本件船小屋内であることを客観的に裏付ける、玉枝が使用していたヘアピンと同種のヘアピン及びヘアカーラーが発見されたのは、八月一五日の取調べで被告人が本件船小屋で玉枝を殺害した旨自白した以後のことであつて、同女の死体は発見されておらず、他に実行行為のこん跡も発見されていなかつたのであるから、実行行為については、専ら被告人の供述を得るよりほかに解明の方法がなく、したがつて、捜査官が既知の知識に基づいて押し付け、ないし誘導を行うはずはない。(2) まして、殺害方法の点については、同月一六日から大規模な玉枝の死体の捜索活動が行われていて、いつ死体が発見されるかもしれない状況下にあつたのであるから、死体が発見されれば死体、ひいては殺害方法も明らかになるのに、捜査官が自己の主観を押し付けるはずはなく、死体投棄場所についても、一刻も早く死体を捜索発見すべき立場にある捜査官が自己の主観で死体投棄場所を決めつけるがごときはおよそあり得ない、という。

そこで、所論(1)についてみるのに、司法警察員作成の八月二五日付検証調書添付写真〈72〉の標示板によると、本件船小屋からヘアピン一本が発見されたのは同月一五日午後五時三〇分ころと推認されるものの、関係各証拠によつても、殺害の場所が本件船小屋である旨の被告人の自白がそのヘアピン一本の発見の前になされたのか、後になされたのか、いずれとも確認できない。そして、捜査官が本件ヘアピン等の存在を知らなくても、また死体が発見されなくても、理詰めの押し付け、あるいは誘導的な尋問によりその自白を得ることが不可能であるとは必ずしもいえない。被告人は原審第二〇回、第二二回各公判期日において、警察官から、玉枝が理由もないのに船に乗るはずがない、船小屋に呼び出してそこで殺したんだろうと言われた旨供述しているところ、確かに、子供を抱え朝食等の用意もしなければならないはずの玉枝が、たやすく船に乗り、被告人が船を出すがままに任せ、沖に出るかは疑問であり、船以外には船小屋が犯行場所と目される最も有力な場所であるから、被告人の右弁解もたやすく排斥し難い。次に所論(2)についてみると、取調べに当たつた一戸警部自身が原審第二四回公判期日において、「で、いくら捜しても死体が出て来ないと。そうしているうちに大崎のほうに変更したと。これはちよつとすれば見えないんじやないかと。というのは、柴崎そのものも、どうせ見えないかもわからない、というふうなことだつたから、せば、もし見えないことを想定して、もう一回殺害方法を聞け、というふうなことで聞いたら、そういうふうに変わつたわけです。」と供述しており、右供述に照らしても、殺害方法に関する右の所論は採用し難い。死体投棄場所に関しては先に説示したとおりである。

更に所論は、被告人は、警察側の取調べに対し、積極的に虚偽の事実を述べて対抗していた位であるから、捜査官の取調べに迎合して供述するようなことはおよそ考えられない、という。

しかしながら、確かに、被告人は原審第二二回公判期日において、サンダルが船上にあつたと取調官に供述していることに関し、「警察があんまり、やつてないのやつたと、おれを怒らがしてしまつて、おれ怒つてあつたところで。やつてねものを、やつた、やつた、てどんどんやるもんだもの、ややもすれば突かれるがと思つて、本当に恐ろしいところで。おれも負けたくないために、船にあつた、と言つたんですよ。船にあるはずがないと、こう言つたけれども、だけど船にあつたつて、こうがんばつただけです。」などと述べており、そのとおりだとすれば、所論のように、警察の取調べに対し積極的に虚偽の事実を述べて対抗したこともあつたといえなくもないが、右は追及的取調べに対し、それに抗すべく感情的になり、うその供述をしたというのであつて、取調べの過程においてこのようなことがあつたにしても、連日の長時間に及ぶ取調べ状況、被告人の年齢、当時の心身の状況等を併せ考えると、本件において、所論のように、取調官の追及的取調べに迎合して供述するようなことはおよそ考えられないとして、本件における被告人の捜査官に対する供述が極めて高度の信用性を有するものとも断じ難い。

3  自白内容に対する疑問について

所論は、本件訴因に適合する自白内容について合理的な疑問が残るとする原判決の判断は不当である、というので、以下原判決指摘の犯行の方法、場所、時間、計画性に関する被告人の自白内容の疑問について順次検討する。

(一) 犯行の方法について

所論は、原判決は、弘前大学医学部教授村上利の証言をよりどころとして、被告人の八月二四日付員面調書(D)以降の自白による殺害方法、すなわち、二輪車に頭を打ち付けて失神した被害者の鼻口部を左手でふさいで窒息死させるという方法は、「(1) 玉枝の転倒が防禦本能の及ばないような形でなされ、(2)二輪車の車輪と支えの間に頭部が衝突して緩衝作用が働かずに脳震盪による失神が生じ、(3) 失神時間が窒息死に必要な三ないし五分間近く継続し、(4) かつ、被告人の手で玉枝の鼻口部が完全に閉じられたという、いくつかの偶然―条件と換言しても同じである―が重なり合つてはじめて可能であるということになる……、そうだとすればその現実の可能性については疑問をさしはさむ余地があると解するのが経験則にむしろ合致するというべきではないかと思える。」と判示するが、被告人の自白により認められる本件の具体的な犯行態様にかんがみれば、原判決の提起する疑問は全く無用である、というのである。

そこで検討するのに、弘前大学医学部法医学教室主任教授である村上利は原審公判廷において、三分か五分位口と鼻の両方を完全にふさがないと窒息は起きず、どちらかでも多少のすき間があれば呼吸が可能であるから死に至らない、もつとも、失神状態の場合であれば窒息死させ得る可能性はあるが、頭部の強打による失神という現象は必ず起こるものではなく、起こることも起こらないこともある、転倒する場合には防禦反射が働くから、失神を起こすのは防禦反応が働かない場合である、二輪車は衝突によつてそのタイヤや車体が動くし、接触する箇所によつては緩衝作用が生ずる、頭髪、ヘアカーラー、日本手ぬぐい、ネツカチーフを頭部に着けていた場合にはそれらが緩衝作用となつて働く、人間が押されて倒れる場合にはよろけるとか、後ろに下がつて転ぶというのが普通で、直立不動の転倒はまずないとみてよく、そのような転倒例からみて、司法警察員作成の八月二八日付実況見分調書添付の現場見取図第5に示されているように、人間と二輪車の間が七〇センチメートル位しかないのは、転倒して頭部を強打する距離としては近過ぎるのではないか、などと供述する。そして、司法警察員作成の「家出人捜索願受理について」と題する書面の添付書類によれば、玉枝の推定身長は一五〇センチメートルであることが認められ、他方、右現場見取図第5によると、同図面上ネツカチーフ、ヘアカーラーが落ちていたとされる〈4〉、〈3〉の辺りから被害者の頭部位置付近の二輪車までの距離は一・一メートル前後であるところ、殺害行為の犯行の態様に関する被告人の自白をみると、先に自白の変遷について述べたとおり、八月三〇日付検面調書(B)によれば、「……この時最初私と玉枝が話した位置とは逆転するようになり、私がパールネツトを背にするようになつたのです。立つたまま私は玉枝の口をふさいでいたのですが、玉枝が私の左手を外そうとしたり、肩の辺りをたたいたりして暴れるので、後頭部を押さえ付けていた右手を放し、すかさず玉枝の左肩の辺りを右手で押して突き倒すようにしたのです。玉枝が暴れるので、転ばしてやろうと考えたのです。私が右手で玉枝の左肩の辺りを突くと、玉枝はその場でよろけるようにあお向けに倒れてしまいました。」というのであつて、このような玉枝がよろけるようにあお向けに倒れたという転倒の態様に徴すると、右現場見取図第5等にあるように、玉枝が二輪車に対し斜めに転倒したものとしても、村上証人がいうように、玉枝と二輪車との間が近過ぎるのではないかとの疑問が生じないではない。もつとも、争つていた位置からほとんど後退することなく倒れたとすれば、必ずしも村上証言のように近過ぎるともいえない。所論は、被告人の供述によれば、もみ合い状態で互いの位置が逆になるように動く間に、いきなり左肩を突いたというのであるから、玉枝は、不安定な姿勢ないし状態でいきなり左肩を突かれ、防禦反応が働く間もなく二輪車に打ち付けたと推認されるというが、前述したように、位置が逆になるように動いた後、被告人が玉枝の左肩の辺りを押し突き倒すようにするまで、多少時間があるようにも理解されるので、所論のように同女の防禦反応が働く間もなかつたのかについては疑問が残る。また、所論は、被告人は、玉枝が二輪車にぶつかつたりしたため、同女の後頭部から出血した旨供述しており、村上証言によると、このような場合かなり強い衝撃を受けたと考えられ、脳震盪を起こして失神状態となる可能性は十分にあるというのであるが、被告人は、八月三〇日付検面調書(B)において、「玉枝が出血している所は後頭部で、恐らく二輪車にぶつけたときか、私が両手で口などをふさいで力を込めた際、頭をコンクリート床にこすり付けるようにしたので、その際後頭部が傷ついて出血したのだと考えた。」と述べているのであつて、二輪車にぶつけたときに出血が生じたとは断言していないのであるから、どの程度強い衝撃かは被告人の供述によつても確定できない。なお、前述したように、二輪車のルミノール検査の結果によると、その右側タイヤの外側(前記現場見取図第5等によると、玉枝は二輪車の左側に倒れたとされている。)に血こんの疑いのある物質の付着が認められるが、血こんの確認及び人血の証明は得られず、玉枝の転倒時の衝撃の強さをうかがわせる客観的証拠もない。更に、被告人が八月三〇日付検面調書(B)において、玉枝は口と鼻の穴をふさがれると、何回か軽く頭を動かしたと述べている点も、右村上証言に照らし留意されるべきであるが、被告人は更に続けて、「口と鼻の穴をふさいでいる左手に力を入れるだけでなく、上半身も乗せるようにしてぐいぐい両手に力を込めた。」と述べており、その結果窒息死に要する約三ないし五分間呼吸が不能な程度に口と鼻がふさがれたとすれば、窒息は相当困難ではあるが、不可能ではないと考えられる。しかしいずれにせよ、これら村上証人指摘の諸条件全体を通じて本件をみると、それらの諸条件を満たした場合に訴因に適合する被告人の自白調書で述べられているような態様による窒息死の可能性の存在を推論し得るとしても、その現実の可能性(蓋然性)については、既述のように、本件訴因に適合する被告人の犯行を認めるのに足りる客観的証拠を欠く本件においては、なおこれを肯認するのにちゆうちよせざるを得ないのであつて、右の現実の可能性について疑いを差し挟む余地があると解されるとする原判決の判断は首肯し得るものというべきである。

なお、弁護人は、滑車を用いて玉枝の死体の入つたかごを船上に引き揚げることは、ほとんど実現が不可能である、という。しかし、鑑定人佐藤佑作成の鑑定書、司法警察員川村卓司作成の実験報告書、原裁判所の第一回検証時における帆立かごの引き揚げ実験の結果を記載した昭和五五年七月二五日付検証調書、当審証人川村卓司の供述によれば、右の引き揚げは可能であると認められる。弁護人は、司法警察員作成の右実験報告書には次の疑問がある、すなわち、(1) 右報告書添付の写真中には、帆立かごが防舷材につかえた際に、その障害を除去して引き上げている状況を写した写真がなく、また、右実験に立会いを求められた三二も、肝心の引き揚げが成功した状況については目撃していない、(2) 帆立かごの両側面だけにロープを回して引き上げる方法で実験が成功するとはほとんど考えられない、と主張する。しかしながら、当審証人川村卓司は、右(1)の写真はなかつたと思うが、右報告書添付の写真〈5〉の船べりまでは実際に引き上げている、それ以上引き上げると仮装被害者の入つたかごがマストの方に振り子のように持つていかれるので危険を感じ、そこで実験をやめた、船べりの上にかごを揚げることは可能と考えられるが、相当困難ではある、右実験時はロープを帆立かごの両側面に回して引き上げた旨供述しており、引き揚げは可能と考えられる。また、弁護人は、前記の原裁判所の昭和五五年七月二五日付検証調書によると、かごにはロープが十文字に回してあり、被告人が自白する、かごの両側面に回す方法ではないと指摘するが、右川村証言によれば、最初ロープをかごの両側面に回す方法で実験したが、ロープが外れたので、上げることが可能かどうかだけの実験ということで、ロープをかごに十文字に回して実験をしたというのであつて、ロープを帆立かごの両側面に回す方法で引き揚げることが不可能なのではない。以上のとおり、帆立かごの両側面にロープを回し、手で引つ張る方法でかごを船上まで引き揚げることは可能ではあるが、相当の困難を伴うことがうかがわれる。

更に、弁護人は、被告人は、船べりから上体を乗り出し、左手で玉枝の左足のズボンをつかんで引き寄せ、二貫ないし二貫五〇〇匁ほどある重石のロープを左足に巻き付けたと述べているが、手が海面に届く船べりの位置は限られているし、しかも、死体が沈まないと分かつて重石を探しに行き、再度船べりに戻るまでには時間を要し、その間漂流して死体と船が離れるだろうから、死体にロープを巻き付けることが困難になる、また、船べりから体を乗り出し、右重量の重石を六五歳の老人の力で手際良く処理できるか相当に疑問である、という。確かに、この点は、一戸警部が原審第一四回公判期日において供述しているように、同警部も疑問をもち、船からいつたん海に投げたものにまた手を掛けて浮かんだのを引き寄せてロープを付けられるかと被告人に問いただしている位で問題になると思われるが、その時の潮の流れの速さ、方向、風の向き等の条件いかんにより必ずしも不可能とは思われないし、また、死体にロープを巻き付けることはもとより可能であろう。

以上のように、個別的にみれば、実行、実現が不可能であるとはいえないにしても、幾重もの条件が満たされることを要し困難を伴うのであり、全体的にみると、果たして現実に行われたのかどうか、その蓋然性については疑問を禁じ得ない。しかも、付近にかごを巻き付けるに手ごろなロープがあり、ロープの付いた重石がある(三二は、原審第二八回公判期日において、六月は漁の時期でないし、重石は船に積んんでいないはずです、と述べている。)など被告人に好都合な事情が重なつたとの感を免れない。玉枝の死体が海中等から発見されて死亡原因が判明したり、その他犯行をより直接的に証明する客観的な証拠があれば、これらの疑問等は解消され得るのであろうが、本件においてはかかる証拠を欠くために、右のような疑問を打ち消し難いのである。

(二) 犯行の場所について

所論は、原判決は、三二の原審公判廷における供述、すなわち、六月初旬ころの本件船小屋は、帆立養殖用のパールネツトが積み上げられていて、入口のところに約一メートル四方ぐらいの空間しかなかつたという供述をよりどころとして、被告人と玉枝がもみ合つて、同女が転倒し頭部を強打し脳震盪を起こすというような条件が充足される空間としては狭過ぎないかという疑問を投げかけているが、三二の九月三日付員面調書によると、六月二日当時本件船小屋のシヤツターを開けて、右側と奥の方には角ネツトが二列に積み重ねられていたところ、右角ネツトは縦横三五センチメートルであり、小屋の間口は三・六四メートルであるから、なお二・九四メートルの余裕があり、小屋の奥行が四・五五メートルであるから、なお三・八五メートルの余裕があつたのであり、関係各証拠によると、少なくとも畳二畳分以上の空間が存在したことは明らかであつて、もともと被告人の自白するような犯行の態様はそれほど広い空間を要するものでないから、十分犯行可能と認められる、と主張する。

しかしながら、原判決は、「畳二畳分位の空間だとしても、前節で検討したように、被告人と玉枝がもみ合つて同女が転倒し頭部を強打し脳震盪を起こすというような条件が充足される空間としては狭過ぎないかという疑問につながつてくることを否定できない」と説示しているのであつて、必ずしも所論のように約一メートル四方ぐらいの空間しかなかつたことを前提にしているものではない。そして、三二は、右員面調書において、「私が新婚旅行へ行く六月二日以前には、小さい船小屋(本件船小屋を指す。)に、シヤツターを開けて右側のさくり板寄りに角ネツトが二列で高さが一・三メートル位に積んでおりました。角ネツトは、シヤツターを開けて奥の方にも高さ一メートル位に積み重ねてありました。」と述べているのであつて、必ずしも奥の方にも二列に積んであつたと供述しているわけではない。このことは次の点からもうかがえる。すなわち、三二は、九月三日付員面調書において、五月下旬には大きい船小屋に角ネツト一〇〇〇枚位が積まれていた、本件船小屋には上記のとおり積んでいた旨供述し、八月二〇日付員面調書において、四月から五月にかけて約一〇〇〇枚の角ネツトを海から揚げて、結婚式を挙げた六月二日までの間に大部分の角ネツトを洗つてしまつていた、ただ汚れがひどかつたもの一〇〇枚か一二〇枚位を外に積んでいた、海から持つて来た角ネツトは船小屋の浜側に置いていたのが大部分だつた旨述べ、原審第一八回公判期日において、被告人方の角ネツトは一〇枚重ねにして二〇〇〇個(二万枚)ある、六月ころまでは小さい小屋と大きい小屋に入つていた、五月三〇日ころ二万枚の角ネツトはほぼ全部小屋に入つていた旨述べていること、その他三二の当審公判廷における供述を総合すると、本件船小屋には約八八〇ないし九〇〇個の角ネツトがあつたことが認められる。そして、三二の八月二〇日付員面調書及び押収してあるパールネツト一個(符号34)に徴し、角ネツトは縦横三五センチメートルで、一〇枚重ねの厚さが少なめにみて七センチメートルであり、奥行を所論のように四・五五メートルとすると、シヤツターを開けて右側(北東)には角ネツトが二列に高さ一・三メートル位積み重ねてあつたというのであるから、本件船小屋の右側には計算上四九四個(455/35×2×130/7((19とする)))の角ネツトがあつたことになり、少なめにみて、本件船小屋に全部で八八〇個あつたとすると、その八八〇個から本件船小屋右側の四九四個を差し引いた三八六個の角ネツトが奥の方にあつたことになる。そして、間口の内のりは三・六四メートルであり、三二の供述によれば、奥の方にも角ネツトが一メートル位の高さに積み重ねられていたというのであるから、計算上奥の方には一列で一二〇個(294/35((8とする))×100/7((15とする)))の角ネツトがあつたことになるので、奥の方には三ないし四列に角ネツトが積んであつたことになり、したがつて、奥から一・〇五ないし一・四メートル位入口の方まで角ネツトが積んであつた計算になるのである。右計数によれば、当時本件船小屋には角ネツトが積まれていたため、所論ほどには空間的余裕はなかつたことになる。更に、三二の九月三日付員面調書によれば、シヤツターを開けて左側にはプラスチツク製青色の水槽がさくり板に立て掛けてあり、シヤツターの入口付近に二輪車(車幅六〇センチメートル)があり、他にも本件船小屋には帆立箱、帆立かごも置いてあつたことが認められるが、右二輪車が前記八月二八日付実況見分調書添付の現場見取図第5のような位置にあり、また右水槽が司法警察員作成の八月二五日付検証調書添付の現場見取図第4におけるように二輪車のある辺りのさくり板に立て掛け、帆立箱がその入口寄りに置いてあつたとしても、二輪車の奥の方は畳二畳分位の空間はあつたものと推認される。

もつとも、原審証人横浜豊志(原判決書六一丁表八行目、同丁裏五行目に「横浜清貴」とあるのは、「横浜豊志」の誤記と認める。)の第二四回公判期日における供述によれば、同人が六月一一日部落の者と玉枝を捜した際、本件船小屋には地面にロープ類などがあつたことが認められ、右ロープ類等のある部分を除く床だけの部分は一層狭かつたものと推測される。なお、三二の九月三日付員面調書によれば、七月中旬ころ本件船小屋の奥の方に積んでいた角ネツトは大きい小屋に移し、帆立箱三箱位を船に移したことが認められるから、司法警察員作成の八月一五日付検証調書、同月二八日付実況見分調書の記載内容と添付写真により認められる空間より、六月七日当時の空間の方がより狭かつたものと考えられる。以上のように、当時本件船小屋において、被告人らが行動し得る範囲がほぼ二畳分位の広さに限定されていたとしても、被告人と玉枝がもみ合つて、同女が転倒し、頭部を強打して脳震盪を起こすことが全く不可能であるとまでは思われない。しかし、少なくとも訴因に適合する八月二四日付員面調書(D)に添付の被告人作成の図面記載のように、〈2〉から〈3〉、〈4〉というような動きをし得るほどの広さではなかつたのではないかという疑問を否定し難いのである。

(三) 犯行の時間について

所論は、原判決は、証人柴崎つま子の原審公判廷における供述によると、同女が六月七日朝公衆電話ボツクスから被告人が電話をかけていたのを目撃した時刻は午前五時三〇分ころであり、証人洞内キヌの原審公判廷における供述によれば、同女が同日朝自宅前を歩いて行く玉枝を目撃した時刻は午前五時三五分から同四〇分ころであり、また、横浜丑之助の検察官に対する供述調書によると、同人が同日朝全速力で沖に船を出す被告人を目撃しているが、これら関係者の供述を突き合わせると、被告人に犯行に要する時間があつたかどうかが疑問になつてくるし、特に証人洞内キヌが玉枝を目撃したとされる午前五時四〇分ころ以降、玉枝を本件船小屋で殺害し、その死体を船に積み込み、一人で船を出して海に死体を捨てて戻り、船小屋前に船を揚げて検察官主張のように午前八時ころに帰宅するためには、各行為をかなり冷静に手際良く処理することがなければ難しいと思われ、被告人がそれほどてきぱき行動できたものかどうかも疑えないこともないとするが、しかしながら、目撃者の目撃時刻の点については、いずれも時計等によつて正確に時刻を確認して供述しているわけではなく、犯行に要する時間は、往路約三五分、帰路約四〇分、船を出し揚げする時間各一〇分位として合計約一時間三五分で、なお約四五分の時間的余裕があるのであるから、原判決がいうような疑問を抱かなければならない理由は存しない、というのである。

しかしながら、横浜丑之助の司法警察員に対する七月一三日付、検察官に対する八月二三日付各供述調書によれば、同人は、被告人の出航を目撃した時刻について、警察官に対し「午前五時一〇分ないし一五分ころ」と、検察官に対し「五時三〇分を回つていたと思う。」と述べているが、右横浜丑之助の供述は、七月一三日と八月二三日という本件犯行があつたとされる六月七日に近い比較的記憶の新しい時点での供述であつて信用性が高く、被告人が出航したのは遅くとも五時三〇分過ぎと考えてよいと思われる(右横浜丑之助の検察官に対する供述は、被告人の自白に転じた八月一四日付の司法警察員小田桐兼太郎に対する供述調書における五時四〇分ころ出航したとの供述、原審公判廷における五時三〇分ころとの供述にも符合する。)。検察官も、当審の弁論において、出航の時刻についてほぼ午前五時三〇分を過ぎたころと認めることには疑問がないものと思われると主張する(もつとも、本件の訴因では、被告人が玉枝を殺害したのは午前六時ころとなつている。)。そこで問題になるのは、柴崎つま子において被告人が公衆電話で電話をしているのを見たとされる時刻と洞内キヌが自宅前で玉枝と会話をした時刻との関係で、訴因の殺害行為及び死体を運び船上まで引き揚げて船を出すことが時間的に可能であつたかどうかであるが、原審公判廷においては、柴崎つま子は第四回公判期日において、右時刻につき「五時半か六時前」とか、「五時二〇分ないし三〇分ころ」と述べ、洞内キヌは第四回公判期日において、「五時三五分か、四〇分ころ」と述べており、これらの供述からすると、右犯行等の遂行は不可能であり、むしろ時間的には、被告人の原審公判廷における次のような供述、すなわち、木村サミエに電話をしようとして公衆電話ボツクスに入つたが、一〇円硬貨がなかつたので電話をかけられなかつた、家に帰つて来て、乗つていたバイクを置き、家には入らずに船揚場へ行き、船を出した旨の供述に符合することになる。ところで、当審において検察官が右柴崎つま子及び洞内キヌの各証人尋問を再度申請し、これが採用されてその尋問が行われたが、その際、右柴崎証人は、朝四時ころ起き、食事のしたくをしたりして四時一〇分ころ家を出、五分位もかからない畑まで行き、畑仕事を一時間位して帰宅する途中に、被告人が電話ボツクスにいるのを見たと述べ、「そうすると、被告人を見掛けたのは、今の足し算をやつていくと、大体五時一五分か二〇分かということになるんだけど、そのころと聞いていいですか。」との問に対し、「まあそうでしよう。」と答え、更に「一審の青森の裁判所で、あなたが言つたときに、五時半ころ見たんだと、こう言つてるんですよね、時間だけぽんと聞かれてるから、五時半というのは、あなたの感じからいうと、うそ言つたわけではないと思うんだけれども、この時間の方が不正確になるわけだね、今言つた方が正確なわけだね。」との問に対し、「いや、時間はどうなんだかね、忘れた……」と答えている。また、右洞内証人は、四時前に目を覚まし、たばこをのんで時計が四時を打つのを聞いた、それから食事の用意をし、ゆぐみ(よもぎ)の水をコンロにかけた、ゆぐみの水は三〇分か四〇分位で沸いた、ゆで上がるまで何分かかつたか分からない、ゆで上がつたゆぐみは二枚の折に干した、一枚に並べるのに五分位かかる、二枚目を始めるころ玉枝に会つたと述べ、「その時間を寄せてみると、これもあなたに聞いても無理かもしれないんだけれど、あなたが熊谷さんに会つたのは午前五時一〇分か一五分ころじやないかというふうに考えられるんだけどね、どうだろうか。」との問に対し、「はつきりしたことなあ、ぱつとしねえこつた。」と答え、更に「……そうすると、おトイレに入るのとか、ガスコンロに火つけるんだとか、顔洗うんだとか、全部合わせて何分位ということになるのかな。」との問に対し、「何分になつたもんだか。だからそこさ、まずあれで、時計何時だつたつて聞かれたときだつたて、五時四〇分かそのくらいでないべかと言つたんだけど。」と答え、「青森の裁判所ではね。」との問に「うん。」と答えている。右両証人は、検察官から、個々の行為に要する時間を加算して計算した結果得られた時刻を基に、その方が正しいのではないかと問われたのに対し、それを肯定する確たる答えをしているものではなく、原審で述べたことの方が実際の生活感覚に基づくもので、記憶上も正確性があるのではないかとも思われる。もつとも、この点はしばらくおき、被告人が五時一五分ころ電話ボツクスにいたとしても、その後四〇八メートルほど離れた(司法警察員作成の八月二八日付実況見分調書添付現場見取図第2参照)本件船小屋へ行き、間もなくやつて来た玉枝を本件船小屋内に招き入れ、そこで口論をし、暴行して三ないし五分間で窒息死させ、死体をかごに入れ、二輪車に載せて船のある所まで運び、ロープを拾つてかごに巻き付け、滑車を使つてかごを船上まで引き揚げ、船を出し(被告人の原審第二〇回公判期日における供述によれば二分位要する。)、その直後横浜丑之助に目撃されるまでに要する正確な時間は確定できないけれども、かなり手際良く処理しなければ、五時三〇分過ぎころ出航するのは難しいように思われる。しかるに、先に述べたように、死体を船上に引き揚げるにしても相当の困難を伴うのであり、果たして時間内に遂行可能かとの疑問を否定し難い。また、五時三〇分を回つたころ横浜丑之助において被告人が船を進めて行くのを目撃したとすれば、船が船揚場と大崎海岸沖の死体投棄場所の間を往復するのに要する時間、被告人が死体を投棄するのに要する時間等を考慮しても、被告人の妻モトが検察官に対する八月二四日付供述調書において述べているように、その日午前八時ころまでに帰宅することは可能であると思われる。しかし、いずれにせよ、目撃者らは時計を見ていたわけではなく、目撃の正確な時刻は確定し難いところがあり、また、被告人の個々の行動に要する正確な時間も確定し難く、死体、あるいは犯行の態様を直接的に証明する他の客観的証拠のない本件においては、被告人の自白の信用性を検証する手だてが十分でないため、一方において、果たして本件訴因に適合する犯行の実現が現実に可能であつたかについての疑念を払拭し切れないのである。

(四) 犯行の計画性について

殺害、死体遺棄の計画性に関する被告人の自白内容を考えても、被告人は、殺害方法や死体投棄場所について訴因に適合する供述をした後の自白調書において、「玉枝を殺す機会をねらつていた。」と述べ、船小屋に呼び出した動機について、殺すつもりで呼び出した旨計画的な殺人であるかのように述べながら、どのようにして殺害し、死体を投棄するかの計画の内容については、さほど具体的な供述をしておらず、しかも、犯行の手段、方法については、前述のように、いくつかの条件が重なり合わなければその実現が不可能であり、また、その場限りの手段、方法であるとの感を免れないことなどからすると、被告人がその自白にみられるような玉枝殺害の計画を有していたかは甚だ疑わしく、更に、原判決が指摘するように、前日の六月六日、被告人が玉枝に休耕田に使うひえの種があるかと聞き、同女が明日被告人の家に持つて行くと応じたことは、熊谷清蔵の六月二七日付員面調書及び八月二二日付検面調書に照らし否定し難いが、この点は同女との交渉の継続がうかがわれる出来事であり、同女に対する殺意の継続あるいは消失に影響を与えかねないものともみることができる。右ひえの種の点につき、所論は、むしろ玉枝に対する殺意を抱いているがために、玉枝の行動ないし態度を偵察したものと推認する余地が十分存するというが、右所論には賛同し難い。以上の諸点にかんがみると、訴因に適合する被告人の自白調書中、計画的犯行であるように供述する部分の信用性は甚だ疑わしい。

4  自白内容と客観的証拠によつて推認される事実との合致等について(控訴趣意第三の二の2)

所論は、訴因に適合する自白内容が、客観的証拠によつて推認される事実と合致し、専門的知識によつて裏付けられている旨強調し、また、当審においてポリグラフ検査の結果が問題になり、更に、原判決は被告人の自白内容が具体的かつ詳細であることなどを指摘するので、以下順次検討する。

(一) 自白内容と客観的証拠によつて推認される事実との合致について

所論は、被告人の訴因に適合する自白内容は、先に述べた客観的な証拠により認められる本件の実相、すなわち、玉枝が六月七日早朝、本件船小屋内で殺害され、その死体が海中に投棄されたと合理的に推認できる事実と完全に合致する、すなわち

(1) まず、殺害方法に関してであるが、本件船小屋内で玉枝に加えられた外力は、客観的な証拠からネツカチーフやヘアカーラー、ヘアピンが脱落するような態様のもので、しかも、多量な血こんその他のこん跡を残さない方法によるものと推認され、例えば、もみ合い状態で被害者を押し倒し、絞殺、あるいは鼻口部をふさいで窒息死させるなどが考えられるのであるが、被告人の自白は、まさにこれに合致する、

(2) 次に死体投棄場所に関してであるが、一戸警部の証言によると、被告人は、八月一三日の同警部の事情聴取の際、同警部からなぜ玉枝を捜さないのかとの質問を受け、「おれも捜した。船も出した狩場沢の方の浜(大崎海岸の意味)も捜した」と答え、突然、同警部が予期もしていない、本件船小屋から約四キロメートル以上も離れた狩場沢の地名を出したので、同警部が不審に思つたという事実が認められ、また、被告人は大崎海岸の松林内に玉枝のネツカチーフ、サンダルを遺留しているのであるが、これは、その遺留状況からみても単なる隠匿とは考えられず、玉枝の死体が漂流あるいは漂着して発見された場合に自殺を装うためにしたものと推認されるのであり、これらの事実は、玉枝の死体が海中に投棄されたものであり、また、投棄場所が大崎海岸の沖合付近であることの可能性が高いことを示している、

と主張する。

そこで、まず所論(1)の殺害方法について考えてみるのに、先に触れたように、ヘアカーラー、ヘアピンが脱落するような外力が本件船小屋で加えられたということはある程度推測可能であるが、本件ネツカチーフが本件船小屋においてどのような態様で発見されたかを客観的証拠によつて確定することができず、したがつて、所論のように、本件船小屋において玉枝に対しネツカチーフが脱落するような態様の外力が加えられたか否かは確認し難く、また、血こんについても、出血を伴う態様の殺害行為に及んだ場合でも、その出血量等によつては付着した血こんがふき取られることもあり得るのであつて、血こんを確認できなかつたからといつて、絞殺あるいは鼻口部をふさいで窒息死させるなどの方法が推認されるとまではいい難い。本件ヘアカーラー及び本件ヘアピンが本件船小屋の床から発見され、床面から血こんが確認されていないなどの事情は、玉枝をコンクリート床に打ち付けて殺したか、その鼻口部をふさいで殺したかまで識別させ得るものではない。次に所論(2)の死体投棄場所に関して考えてみると、所論指摘のように、被告人が狩場沢の方の浜も捜したと述べている点は、不審に思われないではない。関係各証拠によれば、洞内キヌは玉枝が北方の方へ向かつて歩いて行くのを見ているところ、被告人の住む馬門の北方は狩場沢であることが明らかであるから、右のように述べてもおかしくはないともいえるが、一方においてやはり所論のような疑念を禁じ得ない。また、確かに、海岸の松の木の根元に置かれていた本件ネツカチーフ及び本件サンダルの遺留状況からすると、それが単なる隠匿とは考えにくく、被告人が述べる本件ネツカチーフ及び本件サンダルを本件松林に持つて行つた理由のうちでは、玉枝の死体が漂流、漂着して発見された場合に自殺を装うためというのがより合理的であるように考えられないでもない。しかし、右の本件ネツカチーフ及び本件サンダルを本件松林に持つて行つた理由については、被告人の供述が変遷しており、また、被告人の自白によれば、足に重石を付けて海中に沈めたというのであるから、果たして死体が漂着するものかは疑念が生じてしかるべきであり、それにもかかわらず、あえて死体が漂着して発見された場合に備え、自殺を装うために、本件ネツカチーフ及び本件サンダルを本件松林に遺留したものであると断じ得るかについては、疑問の余地が全くないともいい難い。そのほか、関係証拠によれば、被告人が当日早朝船を出しているところを横浜丑之助が目撃していることが明らかであるが、船を出した理由については、後にみるように、ノシを見に行つたとする被告人の弁解に副う事情を証言する証人もおり、右目撃の状況も玉枝の死体が海中に投棄された状況を目撃したというわけではなく、死体遺棄の犯行を直接に裏付けるものではない。更に、被告人は、九月四日付検面調書(C)では、「船を走らせてから死体を捨てた辺りを振り返つたところ、色のあせた赤い旗が一本見えた。」と供述する。そして、右の赤い旗に関し、原審証人金崎徳松は第七回公判期日において、赤い旗を結び付けたブイは、平内漁協の海区では三月から六月までの間大崎海岸の近くではその場所にしかなかつた、六月一四日ブイを補充した際、赤い旗のついていないさおだけが一本か二本立つていた、九月五日に野辺地警察署の警察官がこのことで聞きに来た旨供述し、次いで第一七回公判期日において、「前回旗がついてなかつたと供述したのは、旗がついていないのが当然とも思つたからである。」と供述しており、赤い旗がさおについていたかどうかは明確でない。以上の金崎証人の各供述を通してみると、少なくとも赤い旗がさおについていたとまでは認められず、右証人の供述が必ずしも被告人の前記供述を裏付け信用性を高めるとはいえない。この点をしばらくおくとしても、被告人は、原審公判廷において、青森湾に稚貝が出てそれを引きに歩いたので赤い旗が右の場所の辺りにあることは知つていた旨述べ、前記検面調書において、六月九日本件ネツカチーフ及び本件サンダルを持つて本件松林に行つたとき右の赤い旗を見ているとも述べており、赤い旗の存在を他の機会に知り得たことがうかがわれる。右の次第で、赤い旗に関する被告人の自供とその自供事実の一部が自供後に警察の手で確認された経過等によつて、被告人が玉枝を投棄した旨の自白部分の信用性がどの程度担保されるかは疑問であるといわなくてはならない。以上のように、死体投棄場所に関しては、被告人の自白に副うようにもみえる証言等の客観的証拠が存在するけれども、いずれも確たるものではなく、死体や海岸に流れ着いた遺留品の発見といつたより直接的な客観的証拠が存在しない本件においては、死体投棄場所に関する自白の信用性もいまだ十分には保障されていないものといわざるを得ない。

所論は、また、実行行為自体ではないにしても、実行行為に関する自白と統一的に観察、評価されるべき、本件犯行の動機形成について重要な意味をもつところの、玉枝と熊谷清蔵との三角関係を背景とした愛情問題と金銭の貸借関係を巡る確執の経緯や状況についての自白内容が、原判決が客観的な証拠によつて認定した事実と一致していることも、被告人の自白調書の信用性を裏付けているものといえよう、と主張する。

しかし、先に説示したように、犯行が計画的か否かに関する被告人の供述の変遷や訴因に適合する自白による殺害、死体の投棄が幾重もの条件を必要とすることなどからすれば、所論指摘の愛情問題や金銭の貸借関係を巡る確執の経緯や状況に関する被告人の自白が客観的証拠によつて推認される事実と一致しているとしても、どれほど被告人が玉枝を殺害し海中に遺棄した事実を裏付けるに足りるかは疑わしく、しかも、被告人は、玉枝の殺害や海中への投棄については争いながら、右の確執の経緯、状況については争つておらず、この点で被告人の自白と客観的事実が一致しているからといつて、直ちに被告人の殺人、死体遺棄に関する自白全体の真実性が担保されるとは解し難い。

(二) ポリグラフ検査の結果について

当審証人柳谷豊は、第四回公判期日において、八月一二日被告人のポリグラフ検査を実施した際、緑色のサンダルと赤茶色のズボンに反応があつたように記憶しているなどと供述し、検察官は当審における弁論において、これらのことはいずれも被告人が直接玉枝とその行方不明時に接触を持つていないと起こり得ないことであり、自白の信用性を高める旨主張する。しかしながら、ポリグラフ検査の結果の正確性、信用性については慎重な検討を要するところ、本件においては、柳谷証人が「サンダルは船小屋に落ちていましたか。」との問に対し被告人の反応が認められたことを肯定する供述をするが、サンダルの発見場所に関しては、被告人の供述は、本件船小屋に落ちていたという供述から船の排水口の所にあるのを見付けたという供述に変わり、犯行の場所等について訴因に適合する供述をしている調書で述べられているのは後者であるから、これが正しいとすれば、右反応の正確性、信用性についてはなお疑問が生ずる。柳谷証人が、殺害の方法に関し首を絞めたことに反応したと記憶していると述べている点も同様である。そして、これらの点をしばらくおき、右証人のいう反応を前提にしても、被告人の捜査、公判における供述に徴すれば、被告人が右ポリグラフ検査を受ける以前に本件サンダルの存在を知つていたことになるから、被告人が玉枝を殺害していなくとも反応を示すことが起こり得るであろうし、赤茶色のズボンについては、家族らの話では玉枝が行方不明になつて後茶色のズボンが見当たらないというのであるから、同女が六月七日行方不明時に身に着けていたと考えられるが、熊谷清蔵の同月二七日付員面調書、八月二二日付検面調書、被告人の原審公判廷における供述等によると、被告人は玉枝が行方不明になる前日あるいはそれ以前にも同女に会つているのであり、その際同女が赤茶色のズボンを履いているのを認識したかもしれず、被告人も原審公判廷において、玉枝が普段着ていたものは大体分かつていると供述しており、そうしてみると、これらの反応から直ちに被告人が当日玉枝に会つたことを推認するのは相当でない。したがつて、検察官が当審における弁論において主張するように、ポリグラフ検査の結果がそれほど被告人の自白の信用性を高めるものとはいえない。

(三) 専門的知識等による裏付けについて

所論は、被告人の自白内容は、必要な範囲で専門的知識による裏付けも得られているのであつて、被告人の自白調書の信用性は極めて高度である、と主張する。

確かに、原判示のように、専門家の供述や鑑定の結果等によれば、一定の条件を付したうえであれば、手で鼻と口をふさぐという方法でも死の結果をもたらす可能性のあることが認められる。また、満六五歳の成年男子が、地上約五・八メートルの高さに固定された滑車一個及び固定されない滑車一個を用いて五〇キログラム又は五五キログラムの重量物を地上から約一・七メートルの高さまで引き上げる筋力を有すること、右の作業の途中で、片手で重量物をつるしたロープを引き、片手で重量物を支えるという作業に要する筋力も備えていることが認められ、このことは、被告人が、第三喜代丸のマスト(地上約五・八メートル)の高さに固定された滑車と、右滑車を通つてドラムに結び付いているロープの先に付いたかぎ付滑車を使用して約五〇キログラムと推定される玉枝の死体を地上から約一・七メートルの高さにある同船の船縁に上げ得る筋力を有することを意味し、自白内容の方法で実行することが可能であることを明らかにしている。更に、玉枝の死体を船から海中に落としたところ、死体はうつ伏せになつて海に落ち、一尺五寸ほど沈んだ後浮上した旨の被告人の供述は、法医学上の知識と合致し、自白調書におけるように被告人が玉枝の足に重石を付けてその死体を海中に投棄した場合には、死体が浮上もせず、投棄場所付近でも発見されないこともあり得ることで、むしろ発見されないことの方が、重量物を負荷して海中に投棄された死体の浮上又は移動に関する専門的知識と合致することが認められる。

しかしながら、右のように専門的知識等による裏付けがあることは、訴因に適合する自白の手段、方法で実行することが経験則上、論理法則上可能であることを論証するにすぎず、右手段、方法を裏付けるに足りる客観的証拠を欠く本件においては、それ以上に右経験則、論理法則に合致した内容の犯行が実行されたことの現実の可能性、蓋然性を保障するものではなく、右の限度において被告人の供述の信用性を高めるにすぎない。

(四) 自白内容の具体性、詳細性等について

原判決が調書の一部を引用して詳説するように、本件訴因に適合する被告人の自白調書の供述記載は具体的かつ詳細であり、「……間もなく玉枝の頭ががくつと右の方に少し力が抜けたようになつて目を開いたまま動かなくなつたのです。」とか、「玉枝の死体はうつ伏せになつて海に落ち、一尺五寸ほど沈んだのですが、間もなく浮かんできたのです。私としては死体は沈むものとばかり思つていたのに浮き上がつてきたので慌ててしまいました。」などと実際に犯行を体験した者が供述している臨場感を感じさせる。特に後者については、溺死水中死体の研究に携わつている昭和大学医学部教授の渡邊富雄も、そのような供述をする人は経験者だと言いたくなると述べているように、供述内容に真実味を与えているとみることもできる。もつとも、訴因に適合しない自白調書の内容も相当に具体的かつ詳細であり、また、被告人の供述のうえでは、被告人の日常生活の場所が舞台となり、仕事に使用する用具等が用いられているのであるから、犯行の方法、態様等について具体的かつ詳細な供述が可能でもある。そして、右自白の引用部分も必ずしも経験者でなければ述べられないとは断言し難く、捜査官の経験が反映することも考えられ、取り調べに当たつた一戸警部自身が、本件ノシのときが真実だと思つたと、訴因に適合しない自白の方が真実のように思えた趣旨を述べているほどであるから、本件において、右のような供述内容の特色から直ちに供述の信用性が高度であると即断することは適当ではない。

また、被告人は、八月二五日の実況見分、同月二六日の検証に立ち会い、警察官の求めに応じて犯行の模様を詳細に実地において再現指示していることが各調書の添付写真により明らかであるが、これらは自白後の指示であり、どれだけ自白の信用性を保障するかは疑問の余地がある。

更に、原判決が指摘するように、被告人は、例えば玉枝の頭をコンクリートに押し付けたり、打つたりしているうちに死んだ(八月一五日付員面調書(B))とか、同女の口と鼻を左手でふさぎ、右手で頭を押さえて窒息死させた(八月二四日付員面調書(D))などという殺害方法を述べたり、持船である第三喜代丸に死体を運び入れる方法についても、同船のドラムと滑車を使用したと述べるなど、常識で考えられる絞頸等の手段に比べてそれぞれ特殊な方法を述べている。しかし、玉枝の頭をコンクリートに押し付けたり、打つたりして殺害する方法は、訴因に適合する手段、方法ではない。すなわち、真実でないとされる自白にも特殊な方法が述べられているのであり、特殊な方法が述べられているからといつて直ちにその信用性を肯定できるものではない。被告人は、原審公判廷において、「殺したろう、どうして殺したと言つたために、またやられると思つたので、やむなく『手でふさいだ』と言つた。しかし、警察はそれでは死なないと言うので、二輪車にでもぶつけたと言つたが、それでも死なない、コンクリートに頭でもぶつけなければ死なないと言われたので、そのように言つた。後の調書で口をふさいだとなつているのも、警察でそう変えてしやべつたから、それにはいと言つたために、そういうふうな調書になつた。」と述べているが、右の弁解をそのまま信用することはできないにしても、追及に窮し応対していく過程で自白調書のような供述になつたということも十分にあり得ることである。また、滑車を使用し第三喜代丸に死体を運び上げる方法なども、特殊とはいえ十分考えられる方法である。

5  いわゆる「秘密の暴露」について(控訴趣意第三の二の3)

所論は、本件では、被告人の自白により、玉枝が失踪当時頭に着けていたと認められるヘアカーラー二個が本件船小屋前付近の海中から発見されており、これが「秘密の暴露」に当たることは明らかである、被告人が本件船小屋内で玉枝を殺害したこと、まして、その際同女の着けていたヘアカーラーが脱落し、それを被告人が船揚場から海中に投棄したということは、捜査官において到底知り得べくもない事実であるから、このような「秘密の暴露」を含んだ自白は、少なくとも玉枝を本件船小屋内で殺害しその死体を海に投棄したという根幹部分において極めて高度な信用性が認められる、と主張する。

そこで、本件ヘアカーラー二個が海底、海辺から発見されていることが、いわゆる「秘密の暴露」、すなわち、あらかじめ捜査官が知り得なかつた事項で被告人の自白に基づいて捜査の結果客観的事実であると確認されたものにあたるかどうかを考えてみる。まず、あらかじめ捜査官が知り得なかつたかどうかであるが、当審証人洞内キヌの供述によれば、同女は既に六月一二日に警察官から調書をとられていることが認められ、小田桐警部補も原審第二六回公判期日において、八月一四日の被告人の取調べに関し、「証人自身は、熊谷玉枝さんがいなくなつたときにヘアカーラーみたいなものを頭に着けてた、ということは知つてましたか。」との問に対し、「ヘアカーラーかどうかはわかりませんけれども、六月七日の朝に熊谷玉枝さんが海岸線を歩いている途中、洞内キヌという方が玉枝を最後に見ております。そのときの話では、頭にネツカチーフをかぶつて、その中にこう女がかけるようなものも入つているんじやないかという、そういうことですからまあ、ヘアカーラーかなんか、そこまではわかりませんけれども、頭に何か着けているということは大体分かりました。」と答え、同警部補は当審公判廷において、玉枝が所在不明になつた旨の届出が警察に対してなされた六月一一日から一週間ほど過ぎたころ、同女が所在不明になる前の晩ころに髪を洗つた跡があつたことから同女がヘアカーラーを着けていたのではないかと推測した旨供述しており、これらの関係各証拠によれば、被告人からヘアカーラーの供述を得る前に、捜査官は玉枝がヘアカーラーを身に着けていたことを知つていた形跡がうかがわれる。もつとも、捜査官が、右ヘアカーラーが本件船小屋に遺留され、被告人がこれを付近の海中に投棄したことまであらかじめ知つていたとは考えられないが、捜査官が右ヘアカーラーの存在に気付いていたとすれば、それが本件船小屋に遺留されていなかつたか、遺留されていたとすれば、それをどう処分したかについて被告人に質問することは可能であつて、果たして被告人の方から暴露したのかあいまいになる場合もあり得ると思われる。この点に関し、被告人がヘアカーラーの所在を当初誰に供述したのかについて、一戸警部、小田桐警部補は両名とも自分にではないように供述し、必ずしも判然とせず、このことから更に、果たして被告人の方から記憶に基づいて、本件船小屋でヘアカーラーを発見しこれを海中に投棄したことを暴露したのかどうかについて疑念が生じないわけではない。しかしながら、被告人は原審第二三回公判期日において、「掃いたら出て来たので、ごみと一緒に捨てたと警察に教えた」、「……ヘアカーラー頭さ巻いてあつたんだと。ああ、せばあれ捨てたんでないがなと思つて、それだば船の脇さ捨てたんだと、こう言つたわけなんだけれども」と供述しており、また、被告人は、八月一五日捜査官に対し、ヘアカーラーという言葉を使わずに「髪をねじらかす赤い丸い物」などと述べ、その後これを投棄した場所を図面を作成のうえ具体的に指示していることなどに徴すると、捜査官が既知の知識や推測を被告人に押し付けたのではなく、やはり被告人がその記憶に基づき本件ヘアカーラーについて供述したものと認めるのが相当である。そこで、次に本件ヘアカーラーの捜索、発見の経緯についてみるのに、被告人は、八月一五日一戸警部に対し、「髪をねじらかす赤い丸い物も二、三個とれた、これを船のわきに捨てた。」旨述べているところ、原審証人一戸貞男の第一四回、第二四回各公判期日、同小田桐兼太郎の第二六回公判期日、同大沢景起の第六回公判期日における各供述等関係各証拠によれば、被告人から右のような供述が得られたので、一戸警部あるいは小田桐警部補は、ヘアカーラーについて青森県警察本部に報告し、大沢警部が八月一八日鑑識課長の指示を受けて多数の捜査員を投入し、船揚場付近の海中を青森寄りの海から捜索したが発見できず、一九日に被告人から投棄場所の具体的な供述を得て図面を作成させ、翌二〇日野辺地寄りの海を捜索し、本件ヘアカーラー二個を発見するに至つたことが認められる。原判決は、どのような被告人の供述によつて、誰がヘアカーラー捜索の手はずを決めたのか判然としないところがある旨指摘する(原判決書二〇丁裏)が、右の限度では十分認定することができる。以上のような本件ヘアカーラーの捜索及び発見の状況等からすると、本件ヘアカーラー二個は被告人が投棄したものと認めるのが相当である。もつとも、弁護人の指摘するように、ヘアカーラーに関する被告人の供述を得てから捜索に着手するまで前記のように若干の日時を要していること、捜索に着手し発見されない段階に至つてようやく被告人に図面を作成させたり、具体的な指示をさせ、しかも現地での被告人の指示は八月二五日になつて初めてなされていることなど捜査が必ずしも手際良く行われたとはいい難い点が存在する。けれども、そうだからといつて、被告人が海中に投棄したヘアカーラーと発見されたヘアカーラーとの同一性が否定されるものとは考えられない。更に、弁護人は、発見されたヘアカーラーが被告人が海中に投棄したというヘアカーラーと同一であるかどうかという点は必ずしも明白な事実ではないとして、種々の論拠を挙げるが、ヘアカーラーの発見が六月七日から相当日時を経過しているといつても、このことが直ちに右の同一性を否定する根拠にはならず、ヘアカーラーの発見場所が一個については斜路から五〇メートル余も離れているとはいうものの、原審証人大沢景起の第六回公判期日における供述によれば、満潮時にはその辺にも海水が打ち寄せるのであり、その他先に述べた発見までの経緯に判然としない点があるとの点をも含め検討しても、右の同一性は肯定できる。以上の次第で、本件においては、ヘアカーラーに関する秘密性がそれほど強くはないとはいうものの、被告人の供述に基づいて本件船小屋付近の海底、海辺を捜索した結果、被告人が捨てたというヘアカーラーと同一のヘアカーラーが発見されたものと認めることができる。

しかしながら、本件ヘアカーラーのような物件は死体や殺害に使用された凶器等のように直接的に犯罪行為にかかわるものではなく、しかも、被告人は公判廷において、「ごみと思つて捨てた。」とも述べており、被告人の犯行と無関係に小屋の床面にヘアカーラーが存在し、犯行と無関係に海中に投棄されることも考えられるのであり、本件ヘアカーラーが玉枝のものとも断定し難いことは先に説示したとおりであるから、被告人が本件ヘアカーラーを海中に投棄したことの真実性を肯認し得るとしても、それは直ちに被告人の本件における殺人、死体遺棄の実行行為を裏付けるものとは認められないのであつて、結局、本件における被告人の自白に基づくヘアカーラーの発見が、本件訴因に適合する被告人の自白の信用性をどれほど保障するかは疑問である。

そして、所論は、原判決は、被告人の自白に基づきヘアカーラーが発見されている事実につき、被告人が真実を供述した情況保障となり得るとしながら、「重要な物証である赤色カーラー等の所在を自白するに至る心理状態になれば、その他の事実についても真実を供述しているという事実上の推定が働くと見てよいとも考える余地がある。しかし、被告人は、同日付の調書(八月一九日付員面調書を指す。)で、まだ玉枝の死体は八六番の「ノシ」に捨てたという供述を維持しているのであり、赤色カーラーの投棄自体は別として犯罪事実そのものについてはその後の自白と一致しないところがあり、このような点が明らかにならなければ、右の事実上の推定を働かすこともちゆうちよされるところがある。」としているが、被告人の自白は、いわゆる「秘密の暴露」を含む自白として高度の信用性が認められるのであつて、たとえ死体投棄場所につき虚偽の供述部分があつても、右の自白の根幹部分については真実の供述をした情況保障と認めるに十分である、と主張するけれども、被告人が赤色カーラー等の所在を自白するに至つてからも、死体投棄場所という重要な点についてその後の自白と一致しない供述をしている点も軽視し難いのであつて、右の点に関する原判決の判断は首肯し得ないものではなく、所論はにわかに採用し難い。

右の次第で、本件においては、秘密の暴露としての証拠的意味が所論指摘のように大きいとはいえず、被告人の自白の信用性をどれほど保障するかは疑問の余地があるというべきである。

6  自白に至る経緯及び釈放後の自白等について(控訴趣意第三の二の1及び4)

(一) 自白に至る経緯等

所論は、被告人は、六月一二日、八月一二日、同月一三日の三回にわたり、玉枝の行方不明に関し、参考人として警察側の事情聴取を受け、同月一四日自白するに至つているが、その間の供述の経緯をみると、被告人は、全面否認の態度から徐々に不利益事実を認め、ついに玉枝の殺害とその死体の海中投棄を自白するに至つており、その間の被告人の供述内容、態度などを通観すれば、被告人が警察官の事情聴取ないし取調べに対し平然と虚偽の弁解をして容易に真実を認めようとせず、真実を供述するに当たつても、虚実を取り混ぜて小出しにしていたことが看取され、このことは、被告人のこうかつな性格を示すとともに、被告人がその刑事責任を免れるためにきゆうきゆうとしていたことを物語るものであつて、この種事件において、意識的に虚偽の弁解をして否認していた被疑者が自白に至つたような場合、それだけに、かえつてそのような自白に高い信用性が認められるのであり、本件においても、右の取調べ状況からうかがわれる被告人の態度からみて、被告人が玉枝殺害とその死体遺棄の犯行を犯してもいないのにこれを犯したと認めることは到底考えられず、原判決も指摘するとおり、被告人が八月一四日の取調べにおいて短時間内に、玉枝を「海に突き落として殺した」、「船の上で押し倒したら頭を打つて死んだので海に落とした」として自白したと認められることをも併せ考えるならば、玉枝を殺害し、死体を投棄したという根幹において、その自白は動かし難い真実の供述をしたと認めるのに十分であるといわなければならない、そして、被告人が八月一六日の裁判官の勾留質問においても、玉枝を殺害し海中に投棄したことを自認していることは、まさに右の自白がその根幹において真実であることを裏付けるものといえる、というのである。

そこで検討すると、先に説示したように、被告人は事情聴取時種々うそを述べていたが、徐々に不利益事実を認め、八月一四日に至り玉枝を海に突き落として殺したなどと犯罪事実を認めるようになつたことが明らかであり、このことからすれば、被告人は刑事責任を免れようとしていたものといえなくもない。しかし、他方、犯人でなくとも嫌疑をかけられまいとしてうそをつくこともあり得ないことではない。また、所論は、意識的に虚偽の弁解をして否認していた被疑者が自白するに至つたような場合、それだけにかえつてそのような自白に高い信用性が認められるというが、八月一四日の自白における犯行の方法、態様は訴因に合致しておらず、その後の自白の変遷等をも併せ考えると、右のような自白は信用性に乏しく、所論が犯行の方法、態様は別として玉枝の殺害とその死体の遺棄という事実については高度の信用性が認められるというのだとしても、先にみたように自白の変遷が著しく、かつ、訴因に適合する自白内容に対する疑問も否定し切れず、犯行の方法、態様、場所の特定のみならず、ひいて被告人が玉枝を殺害しその死体を遺棄した事実の存在自体についてさえ疑念が生ずる余地があり、少なくとも、右自白に至る経緯が、訴因に適合する自白における犯行の方法、態様、場所等に関する供述部分の信用性をも担保しているとも認め難い。また、八月一六日の勾留質問においては、先にみたように、その直前の同日付の検察官に対する弁解録取書、八月一五日付員面調書(B)とほぼ同様の供述をしているのであつて、被告人の原審公判廷における供述その他関係証拠によれば、警察官、検察官の取調べ時の被告人の心理状態は裁判官の右勾留質問時においても持続されていたことがうかがわれ、しかも、右勾留質問の際の被告人の殺害の方法についての陳述部分は訴因に符合するものでもなく、その信用性については疑問が残るといわなくてはならない。

(二) 釈放後の自白について

所論は、被告人は、八月一四日に逮捕された後、九月四日に処分保留で釈放されたが、その後同月二七日及び一二月七日の二回にわたり、被告人の自宅で笠原静夫検事の取調べを受け、その際も、本件訴因に見合う八月二一日付員面調書、同月二四日付員面調書(D)以降の自白を維持していることが明らかである、殺人、死体遺棄というような重大な犯罪について、真実は犯行を犯していない者が、釈放後においても犯行を認める虚偽の供述をするようなことはおよそあり得ないことであり、特に本件においては、釈放された後相当日時を経過して、しかも二回にわたり、自宅における取調べにおいて自白しているのであるから、その自白の信用性は極めて高度であるといわなければならない、そして、特にここで重視されなければならないのは、被告人の自白には当初変遷がみられたのに、八月二一日付員面調書、同月二四日付員面調書(D)以降はその自白内容が一貫し、それが釈放後の自白によつても維持されているという点であり、このことは自白の変遷にもかかわらず、犯罪の実行行為、すなわち玉枝殺害とその死体投棄に関しては、右八月二一日付員面調書及び同月二四日付員面調書(D)以後の自白こそが真実の供述であることを示している、というのである。

しかしながら、右釈放後の自白も、九月二七日付検面調書は被告人の捜査段階における従前の自白を要約整理して供述を録取した調書と目されるものであり、一二月七日付検面調書は玉枝の遺書の体裁をとつた書簡を作成した際に使つた便せん等について述べているものであつて、犯罪行為自体については簡単にしか触れられておらず、いずれも釈放後の自白調書であり、任意性は肯認されるが、客観的証拠に乏しい本件において、どれだけ自白内容の真実性の情況保障としての意味を有するものか疑問の余地があるといわなくてはならない。また、先に説示したように、被告人は約二〇日間勾留されて長時間の取調べを受け、心身共に疲労していたであろうことは釈放後床に伏していたことからもうかがえるのであり、被告人も原審公判廷等において、そのような状況にあり真実をいう気力もなかつたと述べている。そして、被告人が右供述に続けて、「やつていないといえばやられるものだとばかり考え……」と述べているように、被告人が心身共に打撃をもたらす逮捕、勾留をおそれて自白を翻さなかつたのだとしても必ずしも不思議ではない。ちなみに、被告人は再逮捕後直ちに否認に転じている。なお、所論は、八月二一日付員面調書、同月二四日付員面調書(D)以降その自白内容が一貫し、それが釈放後の自白によつても維持されているという点は特に重視されなければならないというが、右調書の後にも供述の変遷があることも否定し難い。

7  被告人の弁解について

被告人は、原審公判廷において、従前の捜査段階における自白を翻し、「第三喜代丸の滑車を用いて玉枝の死体のような重いものを持ち上げる力はない」旨供述するが、先に述べた鑑定結果に照らしたやすく採用し難い。また、被告人は、原審第二六回公判期日において、「二輪車もなかつたんだけれども、二輪車さぶつけたと、こう言つたわけ。」と当時二輪車がなかつた旨述べ、原審第二〇回公判期日において、本件船小屋に水の入つていない水槽があつたことを否定する供述をしているが、これらの供述はいずれも三二の九月三日付員面調書その他の関係各証拠に照らし採用し難い。

次に、被告人が真実の行動として弁解する点について考えてみると、当審公判廷における弁解も原審公判廷におけるそれとほぼ同様であり、その内容は原判決が詳細に説示するとおりであつて、右弁解は、原判示のように、被告人が自己の刑事責任を逃れようとして考え出した弁解にすぎないのではないかという疑いも持たれる。

しかしながら、他方、自白調書が作成されるに至つた経緯についての被告人の弁解は、被告人の自白の変遷等に関して既に述べたとおり必ずしも一蹴できないものであり、被告人が真実の行動として弁解する内容についても、以下のように一概に排斥し難い点がみられる。すなわち、六月七日早朝船を出したのはノシのけんかを見に行つたのである、浮き玉を三つ、四つ付けて来た旨の被告人の弁解は、「新婚旅行に行く前に帆立漁に使うノシがけんかしそうになつていたので、父にノシを見たり、また帆立網にごみなどがくつつくと、ノシが沈んでしまうのですが、沈みそうな所があつたら浮き玉を付けておくように頼んだ、旅行から帰つて来たところ、父が、一人で船を出しノシを見に行つたが一人ではどうにもならなかつたと話していた。」旨の三二の供述(原審及び当審における各供述、検察官に対する供述)に符合し、また、「三二が新婚旅行に行く前の六月上旬ころ、被告人から、玉付けをしなければならない、そうでないとノシが沈んでやせてとれるからという話を聞いたことがある。」旨の原審証人横浜清貴の第一七回公判期日における供述にも照応する。そして、三二の右供述は、被告人方のノシに隣接するノシを有する当審証人中村十三男が、「六月一日ころ、被告人方のノシが寄つてきて自分のノシとからみ合つていたので、海上で会つた三二に直すよう依頼したところ、三二は翌日か翌々日にいなくなるから被告人と相談するとのことであつた。」旨の供述に符合する。更に以上の点に加え、前述のように、時間的にみれば、被告人が電話ボツクスを出てからすぐ船を出したのではないかと推測する余地もあることをも併せ考えると、前記のノシのけんかを見に行つた旨の被告人の弁解も一概には排斥し難い。もつとも、検察官は、当審における弁論において、通常の作業をしに行くのに全速力で操船して行くのは不自然であるし、当審証人中村十三男の供述のとおり、浮き玉を付ける必要はなかつたのであり、同人が六月一〇日ころ見たときの状況は以前と変つていなかつたことなどを考え併せると、被告人の弁解は極めて疑わしい旨主張する。確かに船の速度については所論の指摘も首肯し得ないではないが、だからといつて、被告人の当日の出航が直ちに犯罪行為をうかがわせるものとも断じ難く、また、中村証人は、「ノシがけんかした状態のまま、浮き玉を付け足す人もあるかと思う、そのようにした人がいる話を聞いたことがある。」とも述べており、更に「六月一〇日ころ見に行つたときは、まだくつついていた、からんだままだつた、浮き玉は一日より一〇日の方が多く沈んでいたと思う、新しい玉が付いたかはわからない。」と述べ、「だから更に沈みそうになつていたというのならね、追加した状況はないというふうなことが、普通想像できるんじやないですか。」との問に対し、「そうですね。」、「付ける数が足りなくて沈むこともあると思う。」と答えているのであつて、関係各証拠に徴し、所論のように、浮き玉を付けて来たとの被告人の弁解が全く虚構であるとは断言し難い。なお、六月六日被告人が玉枝にひえの種を要求して同女がこれに応じたことが、熊谷清蔵の供述調書の供述記載と一致し、たやすく否定し難いことは前述のとおりである。

そうすると、原判決指摘のように、玉枝の死体や殺害行為のこん跡等の被告人の殺人、死体遺棄の実行行為を肯認するに足りる客観的証拠を欠く本件において、被告人の弁解を全く虚構の事実として否定し去るだけの客観的根拠に乏しく、右弁解を否定するのに十分な証明がないといわざるを得ない。

8  以上のまとめ

以上を総合して訴因に適合する自白調書の信用性を考えてみると、右自白内容は具体的、詳細であり、一応秘密の暴露と目されるものを含み、犯行が方法上、場所的、時間的に可能であるのかなど疑いはあるものの、より積極的に客観的証拠によつて確認される事実と矛盾すると断じ得るものはなく、専門的知識とも矛盾しないなど内容面でその信用性を高める諸事情が存在し、更に、うその弁解を重ねた後逮捕されてから短時間のうちに自白し、釈放後も自白していることなども一応自白の信用性を高めるものと解されないではない。また、被告人の原審及び当審公判廷における弁解には、他の証拠と矛盾し、あるいは再逮捕後初めて言い出されたものもあるなどその信用性が疑われる点が存在する。しかしながら、右の被告人の自白の信用性を高める諸事情もそれぞれ問題点を含み、他方、被告人の自白の変遷、動揺は根本的かつ多岐にわたり、その原因も捜査官による押し付け、あるいは誘導によるのではないかとの疑念を払拭し難く、犯行の時間的可能性のほか、犯行の手段、方法、場所に関してもその実現の蓋然性があるのか疑問が残り、被告人の弁解にも排斥し難い点があるといわなくてはならない。そうすると、訴因に適合する被告人の捜査段階における自白の信用性はそれほど高度のものであるとはいえない。

三  自白と補強証拠に関する原判決の判断について(控訴趣意第二)

所論は、要するに、本件においては、被告人の自白の信用性を担保する補強証拠として十分な客観的証拠が存在するのに、右自白を補強するに足りる証拠がないと判断し、結局本件公訴事実は証明不十分に帰するとした原判決は、証拠の取捨選択ないし評価を誤り、事実を誤認した、というのである。

原判決も指摘するように、死体が見付からなければ、殺人及び死体遺棄の犯罪事実が認定できないわけではなく、死体も一つの証拠方法にすぎないから、他の証拠によつて被告人の殺人、死体遺棄の自白が真実であることが保障されれば、有罪の認定をすることができるというべきであり、直接証拠のみならず、いわゆる状況証拠も自白の補強証拠となり得るのであつて、その補強証拠は必ずしも自白にかかる犯罪組成事実の全部にわたりこれを裏付けるものであることを要しないが、自白にかかる犯罪事実の真実性を保障し得るものであることを要すると解される。

ところで、自白にかかる犯罪事実の真実性を保障する補強証拠の証明力の程度は、自白の種類、性質、態様、範囲、内容等によつて決せられる自白の証明力の程度と相関的に決定されるものと解すべく、自白の証明力が高ければ高いほど補強証拠の証明力は比較的に低くても足りるが、自白の証明力が少なければ補強証拠の証明力はより大きなものが要求され、その自白が公判廷外の自白であつて高度の信用性を有しない場合には、これを補強すべき証拠の証明力の程度はより大きなものが要求されるというべきである。

本件について考えてみるのに、被告人の自白として、殺人、死体遺棄を自供する捜査段階における自白があるけれども、その変遷、内容等にかんがみ高度の信用性を有するものといえないことは既に説示したとおりである。そして被告人の自白を離れて独立した補強証拠としては、自白にかかる被告人の殺人、死体遺棄の実行行為を直接に証明する死体、血こん、目撃証人等の客観的な物証、供述を全く欠き、既に第二の一で考察したように、検察官の訴因である殺人、死体遺棄の構成要件の重要な部分はもとよりその一部をも明らかにする証拠がなく、玉枝が既に死亡し、右死亡が自然死ではなく、被告人がこれにかかわつていたのではないかという疑惑を抱かせる、ネツカチーフ、サンダル、ヘアカーラー等の証拠物件の存在その他玉枝や被告人の挙動等に関する若干の状況証拠が存在するにすぎない。そして、右状況証拠を逐一検討し、総合考察しても、供述の変遷動揺が著しく、実現可能かについて疑問が持たれる、殺人及び死体遺棄の実行行為の手段方法、場所などの犯罪構成要件の重要な部分に関する被告人の捜査段階における自白にかかる事実の真実性について、これを保障し得るものを見いだし難い。

そうすると、本件における右のような範囲、程度の補強証拠は、信用性が高度であるとはいえない被告人の捜査段階における自白を裏付け、右自白と相まつて自白にかかる被告人の殺人、死体遺棄の犯罪事実の架空でないことを十分に推測させ、その真実性を保障し得る証明力、証拠価値を有するものとはいえず、本件における被告人の公判廷外の自白は相当な補強証拠を欠くといわなくてはならない。

したがつて、被告人の自白を補強するに足りる証拠がないとした原判決の判断は首肯することができ、所論は採用し難い。

四  結論

そこで以上考察したところを総合すると、本件においては、前記の状況証拠から、玉枝が既に死亡し、かつ、被告人が何らかの犯罪行為によつて玉枝の死亡とかかわつているのではないかとの疑いが持たれ、しかも本件公訴事実に副う自白も一応存在し、被告人が訴因記載の態様で本件犯行を敢行した可能性を推測し得ないわけではない。しかしながら、本件公訴事実については、これを裏付けるべき被害者の死体や血こん等の実行行為のこん跡、その目撃証人等の客観的、直接的な積極証拠を全く欠くばかりでなく、被告人の殺人、死体遺棄の実行行為を認めるに足りる客観的な状況証拠も存在しない。もつとも、本件公訴事実に副う積極証拠として被告人の公判廷外の自白が存在するが、既に検討したとおり、殺害の手段、方法、死体遺棄の場所などの実行行為に関する重要な点において自白に変遷があり、その変遷については捜査官による押し付け、ないし誘導による影響もうかがわれ、また、実行行為に関する自白内容についてはこれを裏付けるに足りる客観的証拠を欠き、被告人の弁解にも一概に否定し難い点もあり、自白にかかる犯罪事実の真実性について種々の払拭し難い疑問が残り、その真実であることの蓋然性が高度のものであるとはいえない。そして、自白の証明力の程度と補強証拠のそれとは相互に関連するところ、本件の場合、信用性が高度であるとはいえない右公判廷外の自白について、その自白にかかる犯罪事実の真実性を保障し得る証明力を有する補強証拠がなく、相当な補強証拠を欠くというべきである。

結局本件においては、原審で取り調べた証拠に当審における事実取調べの結果を併せ考えても、本件公訴事実について証拠が不十分であり、これを有罪であると認定するにはいまだ合理的な疑問が残るというべきである。

したがつて、原審で取り調べた全証拠を総合しても、本件公訴事実につきその証明が十分でないとして、被告人に対し無罪を言い渡した原判決の判断は、結局正当として是認することができる。多岐にわたる所論にかんがみ、記録及び証拠物を精査し、当審における事実取調べの結果をも併せて検討しても、原判決の右結論を動かすだけの事由を見いだすことはできず、原判決に所論のような判決に影響を及ぼすことの明らかな事実誤認はない。論旨は理由がない。

以上の次第で、刑事訴訟法三九六条により本件控訴を棄却することとし、主文のとおり判決をする。

(裁判官 粕谷俊治 小林隆夫 小野貞夫)

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